私が直木賞を受賞したわけ
たとえば私が三十一歳で直木賞をもらった直後、大磯の田圃の真ん中の一軒家に猫と一緒に住んでいた坂西志保さんをお訪ねしたことがあった。坂西さんは前回、同じ直木賞の候補になった「濁水渓」という作品も読んでおられて、
「あなたが成功されたのは、同年輩の日本の青年が思いも及ばない異常な体験をされたからですよ」
といった。そういわれれば確かにその通りで、当時私は亡命者の立場にあった。終戦の時に東大を卒業した私は、翌年まで大学院にとどまっていたが、次の年に生まれ故郷の台湾へ帰った。台湾の占領と統治のために蒋介石が送り込んできた役人と軍隊は稀に見る悪い奴らで、当時の私は正義感に燃えていたので、こういう奴らと同じ屋根の下で暮らしたいとは思わなかった。
翌年、二・二八事件という台湾人による反政府暴動が起こり、一万人にのぼる無辜(むこ)の民が殺されたり、投獄されたりしたので、私は義憤を感じてこっそり台湾から香港に飛び、駐香港アメリカ総領事館の人たちの力もかりて、国連に台湾で国民投票を実施するよう呼びかける請願書を出した。それから知らん顔をしてまた台北へ戻っていたが、ある日、新聞をひろげると、国連駐在AP、UPIの記者が台湾の人たちが独立連動をしているというニュースを流したのに対して、台湾省参議会議長の反駁文が一頁大のスペースで掲載されていた。
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