加工業でメシを食う以外に選択の余地がなかった
あと百年は復興できないとさえ思えた敗戦直後の日本の状態
第二次世界大戦に敗れて、日本が無条件降伏をした一九四五年八月十五日、私は岡山県上道郡浮田村というところで、田圃の草とりをやっていた。同じ年の三月九日に東京の大空襲にあい、辛うじて焼け残ったアバートをあとに、私は東大の同級生の田舎の家に疎開をした。学生時代、親しくしていた何人かの友人のなかで、広島の造り酒屋の息子と、岡山の電気技師の息子が、台湾へ帰らないのなら自分の家にこないかと誘ってくれた。きいてみると、広島の友人の家は街中にあり、もう一度空襲にあったら、またまた、疎開をしなければならないようであった。それなら、岡山市の郊外のだれも住んでいない藁ぶきの家のほうがいいだろうと思って、岡山県の友人の家を選んだ。もし私があのとき広島を選んでいたら、原爆の直撃を受けてそのままあの世にいっていたかもしれない。
岡山の田舎にいったおかげで、私は麦刈りから、牛を使って畝を起す要領から、田植えのやり方まで覚えた。松を切って、炭を焼く方法も習った。私は岡山県の田舎に引っ込んだが、同級生には時の天皇の侍従長の身内もいて、戦況がどんな方向に動いているかについても、また天皇が陸軍のトップに対してどんなにご不満の様子かも耳に入っていた。だから、田圃のなかで草むしりをしながら、戦争は近いうちに日本の敗戦という形で終結するだろうと確信していた。
広島に原爆がおちたとき、岡山は広島のお隣りだったから、たちまちのうちに惨状に関するニュースが伝わってきた。広島はあと百年たっても草も生えない廃嘘になるのではないか、とまことしやかにささやかれた。
八月十五日の朝に、お昼に天皇の放送があることがラジオで伝えられた。玉砕論の盛んなときであったから、田舎の大多数の人々は、天皇が国民を激励するための演説をするのだろうくらいに思っていた。私は「もう戦争が終るのですよ」と嘴を入れた。だれ一人、私の言うことを信じなかったが、玉音に耳を傾けると、はたして私の言うとおりだったので、皆、驚いて、
「もしかしたら、あの人はスパイじゃないか。でなければ、戦争が終ることを事前に知るわけがない」
と妙な噂を立てられた。もちろん、私はスパイでも何でもなかった。私にはニュース・ソースがあり、あとはそうしたニュースにもとづいて自分なりの予測をしただけのことである。
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