もう戦争も終っていた。空襲の心配もなくなっていた。私は東京へ戻る決心をした。東京へ戻ってみると、上野から本郷一帯にかけて戦災にあっていたが、東大の構内は焼け残っていた。私は経済学部の研究室に自分の荷物を預けたまま岡山に疎開していたので、自分の荷物をもらいうけて等々力にある大東亜学生寮という、戦争中、外国人留学生のために建てられたアパートに引越しをした。
見渡す限りの焼け野原であった。ほとんどの日本人が虚脱状態にあったが、焼け跡に立った外国人たちも荒廃した東京を見ながら、
「あと五十年たっても復興の見込みがないでしょうね。もしかして百年は駄目かもしれないね」
と首をかしげた。本当にそのとおりかもしれないと私も思った。
台湾や朝鮮の人たちは、今まで植民地の被支配民として差別待遇に甘んじてきたが、終戦とともに一夜にして戦勝国民の側に移った。アメリカの占領軍がこれらの第三国人に日本人と違う待遇を認めたので、米や砂糖の特別割当をもらえるようになり、おかげで飢えることだけは辛うじて免れた。しかし、私は台湾や朝鮮の人たちが差別待遇されるのを見るのも嫌であったが、その逆の形になることも愉快なことだとは思わなかった。
何よりも私が怖れたのは、国全体として食糧の不足する日本でそのうちに餓死者が出るのではないかということであった。台湾も同じように戦災を受けていたが、台湾は年に二度もお米のとれる土地だから、少なくとも食糧の自給だけはできる。だから日本内地へ引揚げる日本人を運ぶために引揚げ船が運行するようになると、私はそれを逆に乗って自分の生まれ故郷に帰った。
「もう日本は、アメリカの占領軍に占領されたまま、あと百年は復興できないかもしれない」
と思いながら・・・・・・。
しかし、それから十年もたたないうちに、私はまた東京に舞い戻っていた。台湾に帰った私は、当時、蒋介石が送り込んできた行政官と軍人の腐敗ぶりに愛想をつかし、二年間、台北市に住んだだけで香港に亡命し、香港に六年間住んだが、昭和二十九年には小説家になるために東京に舞い戻っていた。すでに講和条約が締結され、占領軍司令部は解散されていたし、昭和二十八年の春にはスターリンの急死があって、日本の証券界もいわゆるスターリン暴落の洗礼を受けて四苦八苦していた。
当時、私は小説を書いて何とか独り立ちできるようにと、そのことばかり念頭にあったので、産業界のことはまるでわからなかった。
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