当時の日本人は何でもアメリカに学びたがった。のちに日本人のなかには、日本の平和憲法はアメリカに押しつけられたもので、改正の必要があると主張する者も現れたが、制定された当時の平和憲法は日本人にとって、「神の声」のようなものであった。長く牢獄につながれていた共産党の闘士たちは、アメリカ人の押しつけた民主主義のおかげで自由の身になれたし、軍国主義の推進者たちが戦争犯罪人あるいは戦争責任者として裁判されたり、追放され、憲法が武装の禁止を明文化したおかげで、日本人がどれだけトクをしたか、はかり知れないものがある。
その後、ソ連と対峙関係にあるアメリカが、当初の対日主張をかえて、日本人に武装と軍事協力を要求するようになっても、日本は平和憲法を楯にしてアメリカの要求を断り続けることができた。他の国々が軍事費に莫大な支出をしているあいだ、防衛はもっぱらアメリカに只乗りして、自分たちは民需の工業開発に専念することができたのである。
つまり日本人がアメリカに学んだのは、軍事大国としてのアメリカではなくて、アメリカ人の生活水準を維持していくための商品の生産やそのためのシステムであった。
昭和三十年代になると、日本人の海外旅行がかなり自由になったので、経済視察にいく人がふえたが、大半の日本人が出かけた先はアメリカであった。フォードやGMの工場を見学にいった日本人はおそらく将来、自分たちがあれにまさるとも劣らないラインをつくるようになるとは想像もしなかっただろうし、またスーパーやチェーン・ストアの見学にいった日本人の小売店主が将来、日本を代表するような大型スーバーの店主になるとは考えてもみなかったに違いない。日本人としては、せめてアメリカの技術やシステムを取り入れ、少しでもその水準に近づくことを目標に努力するのが精いっぱいであった。
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