アメリカという金持ち国の貧乏人が日本人の救世主
昭和二十〜三十年代、アメリカ製品は日本人のあこがれの的だった
しかし、飢餓線上をさまよっていた終戦直後の日本人にとって何より有り難かったのは、アメリカが自国市場を日本商品のために開放してくれたことであろう。
あの時代の日本商品はアメリカ製に比べて遥かに見劣りのするものであった。その日の食べ物にも事欠いた時代だから、占領軍が持ち込んできたコンビーフの缶詰やバターや砂糖は貴重品だったし、GIが子供たちに投げてくれたチョコレートやチューインガムは、それを口に入れただけでも天にのぼる心地のする素晴らしいものであった。
アメリカ製品は何によらず日本人のあこがれの的であった。昭和二十四年から、二十九年まで私は香港に住んでいて、外国製品は何でも手に入れることができた。東京へ旅行に来るたびに、日本で喜ばれる数々の外国製品をお土産に持参した。そのなかにはメイド・イン・ユー・エス・エーのものも数多く含まれていた。なかでもビニールのベルトやビニールのテーブル・クロスは、日本人に喜ばれる珍しいものの一つであった。
プラスチックスはアメリカではすでに実用化され、日用品、家庭用品として売られていたが、日本にはまだそういう商品がなかった。日本人の家に行って、応接間のテーブルの上に、ビニールのテーブル・クロスが敷かれているのを見ると、ハハン、この家の人たちはアメリカ人と何か関係があるんだな、と思われた。でなければ、メイド・イン・ユー・エス・エーの高価な品物を手に入れるだけ、金回りのいい家に違いない、ということであった。
アメリカ製品は日本国内で人気の的だったので、アメリカ製を偽る商品も横行した。USAはユナイテッド・ステイツ・オブ・アメリカの略称だから、通常、UとSとAの間に・が入っている。日本でつくられた偽物にはメイド・イン・USAと印刷されたものがあって、警察につかまったりすると、これはウサであり、ウサでつくられたものだと強弁する偽物づくりのメーカーもあった。宇佐八幡宮のある宇佐なら日本人によく知られた地名である。
今日、考えてみると、本当に信じられないような光景であった。今日の日本人は、メイド・イン・ユー・エス・エーという字を見ただけで、その商品は敬遠する。ファッション製品なら一握りのよく知られたデザイナーの作品を除いては、アメリカ製には一顧だにあたえられないし、自動車だと、ガソリンをよく食うだろう、壊れやすいだろうと悪いほうの連想をする。しかし、昭和二十年代から三十年代にかけての日本ではそうではなかった。アメリカは日本人の大先輩であり、教師であり、あこがれの的であった。
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