その理由としてあげられたのは、第一に、科学技術の水準がアメリカと日本では差がありすぎる。第二に、アメリカが年に八○○万台も生産するのに対して、日本のロットは小さすぎてスケール・メリットが全くない。第三に、日本の道路事情が悪すぎて自動車産業の発展に向かない、といったことであった。三十年たってみると、以上あげられた否定的条件はすべて解決されているから、人間の常識はあまりあてにならないことがわかる。
ただそれにしても、どうして日本の新興産業がカメラ、腕時計、さらには家電製品や自動車を含めて、短期間によくあれだけの輸出産業にまで成長したのであろうか。日本人にはもって生れた物づくりの天才があり、外国から覚えた技術でもたちまち自家薬籠中の物にしたのだと言ってしまえば、それでおしまいであるが、電気掃除機でも電気洗濯機でも、あるいは電気冷蔵庫でも、日本の電機メーカーがつくった新製品に真っ先にとびついたのは、ほかならぬ日本人だったのである。
昭和二十九年は日本の産業界の空前のピンチの年であったと私は言ったが、三十年から三十一年、三十二年にかけて景気が少しずつ回復し、やがて神武景気と呼ばれる空前の繁栄につながったのは、少しばかり余裕のできてきた日本の家庭で、家庭電化のブームが澎湃(ほうはい)として起ったからであった。分割払いは、ミシン業界が最初であったが、月賦で物を買う習慣はすぐ家庭電化製品に飛び火した。
そのころ書かれた「主婦五つの楽しみ」という河盛好蔵さんのエッセイのなかでは、デパートに買物に行くとか、同窓会に顔を出すとか、仲人をするとか、自分にはそれを実行するだけの勇気はないが、姦通映画を見てスリルを味わうことのほかに、無理をしてでも家庭電化をすすめることが入っていた。つまり日本のメーカーが新しくつくった製品は、まず国内においてブームを呼び起し、国内市場で使用をテストしてから量産に乗せるようになったが、日本の一億人の市場はそうしたマスプロ商品を成り立たせるだけの頃合のスケールだったのである。国内でテストをしながら改良をしているうちにコスト・ダウンが効くようになる。それが量産のできる体制になったころには、国際的に競争のできる品質と値ぎめが可能になっていたのである。
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