このことは労働こそが富の究極の源泉であることを物語るものであるが、その漁の付加価値がどのくらいの大きさになるかは、品物の種類により、また労働の種類によって大きなひらきが出てくる。一般的にいえることは、食糧とか、原料とか、一次産品の生産から生ずる付加価値はあまり大きくない。
たとえば、日木では米作に手厚い保護を加えて、アメリカやタイの十倍もの高い値段で売られている。しかし、その米を使ってつくられたすしや餅やせんべいや酒が米価より安いことは絶対にない。またオーストラリアに行ったら、羊を飼って羊毛をとったり、羊肉を売ったりしているが、羊毛より毛糸や洋服地が安いといったことは絶対にあり得ない。もしそういうことが起ったら、加工業者はいなくなって、製品が市場から姿を消してしまう。一時的に逆ザヤが生じても、価格はいずれ正常な状態に戻る。したがって羊を飼っている人よりは羊毛の加工をしている人のほうがより高い付加価値を生むし、羊毛の選別をしている人よりは毛織物をつくっている人のほうが付加価喧が大きい。
機屋さんよりは、ファッション・ビジネスに従事している人のほうがずっと値幅のとれる商売をやっている。それならば、皆が羊を飼うのをやめて、ファッション・ビジネスにうつつをぬかすかというと、そんな心配はない。世の中には羊を飼うのが似含っている人もおれば、ファッション・ビジネスに才能を発揮する人もある。羊飼いのほうが利がうすいかもしれないが、ある程度のスケールで合理的な経営をやれば、商売としては一応採算にのるし、ファッション・ビジネスは一件あたりの付加価値は高いかもしれないが、それは気に入ってくれるお客があっての話で、売れないファッションをいくらいじくりまわしても苦労が多いだけで成果はあがらないのである。
しかし、生産から消費の過程を観察すると、現実には、一次産品や素材産業よりは、加工度が高くなるほど、また最終消費に近いほど、付加価値は高くなってゆく傾向が見られる。したがって工業化が進むほど加工の過程で富が増えてゆく。
日本人が他国民を抜いて大金持ちになってきたのも、もとを言えば、大多数の人が農業から離れて付加価値の高い工業生産に従事するようになったからである。それを食糧の自給時足とか、農民の保護にこと寄せて、付加価値の低い農業に固執することは時代錯誤の最たるものといってよいであろう。
いったん、工業化に成功したら、その国は逆戻りができなくなる。高い付加価値を創造して大金持ちになったのだから、少々くらい高い(といっても、輸入価格の十倍もの)米を食べて農民を助けてもいいじゃないかと思う人がいるかもしない。しかし、付加価値の少ないものを、人為的に高値に維持することは経済の原則に反するし、社会的な損失であるし、そう長くは続くものではない。高い付加価値を生み出す能力をもった国民は、効率の悪い付加価値しか生まない分野の生産はやらないものであり、またやるべきではない。効率の悪い仕事は、もっと賃金の安い地域の住民か、それをやるのに有利な条件をそなえた国々に譲るべきである。またそれでなければ、付加価値の追求をしてきた意味がなくなるのである。

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