第三章 日本人が工業で成功した秘密
       工業人口の増加は金持ちへの約束手形

農業で食べられないことが日本を工業化へ向わせた
日本人には、自分たちがどうして金持ちになったのか
自覚している人よりも
不思議に思っている人のほうが多いに違いない。
昔から日本は天然資源に恵まれなかったし、領土が狭くて増加する人口を養っていくこともできなかった。そこでヨーロッパ先進国の帝国主義にならって、周辺諸国の併呑にかかったが、あまりに性急かつ露骨にやったために、世界中を敵にまわし、袋叩きにあって挫折してしまった。
敗戦によって九○○○万の人口が四つの島に追いかえされて、「少なくとも一○○○万人は多すぎるのではないか」「こうなったら一人減ってくれても口べらしになるから、自殺も忠君愛国だ」といわれた。この時期が日本人にとって最大のピンチの時期であった。ピンチのなかで日本人は無我夢中で働いた。昔に比べて、特別に違ったことをやっているという自覚はなかった。もともと日本人は昔から勤勉だったし、戦後、特に働くようになったということではない。まだ夜も明けないうちから田圃に出かけて、這うように草取りをした時代のほうが、戦後の食うや食わずの時期より怠け者だったとはとても思えない。にもかかわらず、戦前のほうが貧乏だったのは、大半の日本人が農業に従事していたからであり、また効率の悪い仕事をしていたからであった。
戦争が終るまで、日本は農業国であった。人口の半分が農民であった。水田を基調とした農業だったせいもあるが、日本の農業は水田地域の国々と同じように、園芸型の集約農業であり、農地を細分して家族労働で耕作に従事することによって辛うじて生計を立てることができた。狭い農地でたくさんの農民がひしめきあっているうちに貧富の差がしぜんにできあがっていき、いつの間にか地主、自作農、小作農と階級差がつき、地主から土地を借りて小作料を払う小作農が数のうえでは一番多くなった。土地が狭いうえに効率の低い農業生産に従事していたのでは、生れる次の世代を養っていくことができない。長男に親の跡をとらせるのがやっとで、次男以下の「冷や飯食い」は、都会へ働きに出すか、でなければ、満州のような新天地の開拓団に送り込むよりほかなかった。日本のマルクス学者たちが指摘していたように、「日本の農村は労働予備軍の貴重な供給源」だったのである。
ところが、戦後は何百万人という外地居留者がドッと本国に強制送還されてきたし、これまた何百万人にものぼる兵隊が戦地から復員してきた。東京や大阪などの都会地は戦災のために焼け野原になっていたし、田舎の家をたよりに戻ってきても、これ以上農地が開拓できるわけではないから、農業でメシの食っていけないことは、はっきりしていた。食糧は不足していたし、供給が需要を充たしきれなければ、ほっておいても値段は高くなる。国が食糧の統制をすれば、ヤミ米が横行して、米をつくるよりヤミ米を取り扱ったほうが暮しが立つ。こういうときは生活に必要な日用品、たとえば鍋釜の類をつくって農民と物々交換すれば、貴重なお米が手に入るから、生産業に従事する人も増えてくる。事実、日立や東芝のような大会社でも、軍需の全くなくなってしまった敗戦直後は、重電機や銃器をつくる技術で鍋釜を作って糊口をしのいだ。おかげで「電気炊飯器のような素晴らしい傑作が生まれたのだ」といっても必ずしも冗談とはいいきれないプロセスを経て、日本の工業は民需だけで成り立っ方向への転換に成功したのである。
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