軽工業からヤミ市まで、農業が吸収しきれなかった人口は都会地に集まり、なりふりかまわない生存競争に身を投じた。特に植民地や大陸から引き揚げてきた人々は、たとえ田舎に親戚があったとしても、耕作できる農地は限られているし、これまで農業に従事した経験もなかったから、ほとんどが田舎をすてて都会地に集まった。
大都市に集まったこうした人々の生存競争によって都会は息を吹き返し、国全体が非農業の方向に向ってまっしぐらに駆け出すことになった。食糧の不足した時代には農民が一番偉く見えた。都会に住む人たちは焼け残った衣類を箪笥の中から取り出して、米と交換してもらうために、農家に頭を下げてまわらなければならなかった。その一方で、農家で食えなかった者は都会へ集まったが、都会へ集まったからといってすぐに仕事にありつけたわけでもなかった。都会へ集まることは冒険に出かけるようなもので、決して人の羨ましがることではなかったのである。しかし、形勢はすぐに逆転した。外国から小麦やとうもろこしを緊急輸入することによってどうやら食糧危機を乗り越えると、今度その支払いのために工業に従事しなければならなくなる。工業がもたらす付加価値のほうが農業のそれよりはるかに大きいことは、やがてだれの目にもはっきりと映るようになったのである。
もちろんそうなるまでには十年や十五年の歳月は必要だった。食糧の不足していたあいだ、ヤミ米の横行していたあいだ、食糧の増産は依然として重要視されていた。いまでもその残党と覚しき人にときどき出会うことがある。が、さしあたり日本人に必要なことは、食糧や原料を輸入する代金を支払うために、輸出に力を入れることであった。資本も資源もない国に輸出できるものがあるとすれば、労働力くらいなものである。幸か不幸か、当時の日本人は海外に出ることすら禁じられていたから、自分たちの閉じ込められた国の中で、自分たちの身体を動かし、手間賃を稼ぐよりほかに選択の余地はなかった。
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