農民が減った分だけ日本人は金持ちになった
当時の水準でも日本人は世界中を相手に戦争を仕掛けるくらいの実力を持っていたから、科学技術力で勝負に出る余地は残っていた。「軍艦をつくる技術で鍋釜をつくる」ということは、その原料になる素材も自国内で生産できたからである。だから繊維のような軽工業はもとより、軍需産業のタブーにふれることさえなければ、鉄鋼でも、自動車でも、一通りの生産技術は持っていた。そのうえ、技術の習得には熱心だったから、物をつくってメシが食えるとわかれば、輸出に焦点をあわせてまっしぐらに工業生産に頭を突っ込むようになった。これは仮定の問題にすぎないが、もし朝鮮事変やべトナム戦争が起り、アメリカ軍が戦場に近い日本で自動車や船舶や軍需品などの特需を大量に発注しなければ、あるいは日本の産業界は繊維のような軽工業中心の産業構造からなかなか脱皮できなかったかもしれない。戦後の日本の工業の発展にとって、一番大きな刺激になったのはアメリカの特需であったが、もっと重要なことは、日本人がその憲法のなかに、自ら戦争放棄を宣言し、その憲法に縛られることによって、軍需産業に手を出さなかったことであった。国防費に依存しない産業構造ほど日本を大きく成長させたものはない。それは周辺諸国に安堵の胸を撫でおろさせることになったし、また日本人にはっきりした目標を定めさせるきっかけにもなった。特需といっても、武器弾薬以外のものは生産できたし、それは軍事目的に使用すれば軍需品だし、民間で使われれば民需品であった。
今日、自動車会社やカメラなどの精密機器会社の社史を読むと、朝鮮事変やべトナム戦争に伴う特需がいかに日本企業の飛躍的な発展のきっかけになったか、はっきりと記載されているが、そうした幸運に恵まれたために、日本は繊維のような軽工業から、自動車や家電も石油化学やさらにはコンピュータへとうまく方向転換することができたのである。
今でも「平和憲法はアメリカ人によって押しつけられたものだ」「いや、憲法改正などとんでもない。平和憲法は死守すべきだ」と、ケンケンガクガクの議論が続いているが、平和憲法に縛られたおかげで日本人は国防費の負担を免れることができたし、その全力をことごとく民問経済の発展に集中することができた。最近になって防衛予算がGNP一%のワクをはみ出したのはやむを得ないとか、はみ出したのはけしからんとか、非武装の原則をめぐって争いは絶えないが、周辺諸国がその十倍も二十倍も無駄なお金を使っているのに比べれば、どれほどトクをしたか、計り知れないものがある。
とりわけ産業界が軍需をあてにせずカメラやミシンや洗濯機や冷蔵庫やテレビやビデオの生産に力を入れたことは、日本の企業体質を強化し、国際競争力をつける原動力になった。何しろ国内に一億人の消費市場を抱えているので、売れそうな商品を開発して、まず国内で売り出して消費者の反応を見る。「うん、これは売れるぞ」と自信をつけてから輸出に振り向けるので、もうそのころには欠陥の手直しもある程度できているし、量産によってコストダウンにも成功している。はじめから輸出を狙わなければならないNIESの国々の商品と違って完成度は抜群に高く、クレームをつけられる心配もほとんどなかったのである。
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