工業化は人口密度と貧富に新しい地域差をもたらした


工業化は全国を過密地帯と過疎地帯にニ分した
以上述べたように、工業の発展は農業人口を減少に導くきっかけとなったが、同時にまた日本国内における人口の分布やお金の流れにも大きな変化をもたらした。
農業国だったころでも、すでに東京都や大阪市クラスの大都会ができていたし、地方へいけば、県庁所在地になっている地方都市もあった。また東京と横浜をつなぐ京浜地帯とか、大阪と神戸をつなぐ阪神地帯とか、あるいは、北九州地帯のような工業地帯と呼ばれる工場地域ができあがっていた。都会と農村、あるいは工業地帯と農村地帯といった区別は、戦前からすでにあったが、農業国であったころの特徴は、農地に比例して人口が全国的に平均して分布されていたことであろう。
日本は地理的には列島の形をした狭い国土であるが、細かく分けると、耕作に適した農地の多い県もあれば、少ない県もある。また土地の肥沃度にも違いがある。山陰や四国は農地が少ないせいもあって人口がまばらだし、なかでも山梨とか、鹿児島とか、青森といった県は、人口が稀薄なうえに、産物が乏しかった。ただし、そういう貧乏県でもある程度の人口を擁していられたのは、それなりの農地があってそれを耕せばメシを食っていくことができたからである。
ところが、工業化がすすむと、人口は田舎から都会へと大移動をする。それも工業都市と呼ばれる土地に集中する。工業は狭い面積で多くの人を食わせることができるので、必ずしも広大な土地を必要としない。その代り、関連企業が周辺に集中していることが望ましく、また労働力が容易に確保できることと、交通の至便なことが大切である。そうした条件を備えているのは、さしあたり京浜工業地帯と阪神工業地帯であったから、工場の大半がこれらの地域とその周辺に集中した。人手に不足を生ずると、これらの地域にある企業は、仕事が少なくて人口の余っている地域へ人集めに出かけていく。片田舎の人も、そうした求人に応じて大都会へ出て来さえすれば職にあぶれることはなかったから、人口はどうしても都会地に集中してしまう。
たとえば、東京の都心部から少し離れた郊外地とか、神奈川県、埼玉県、千葉県などの隣接地域に次々と工業地帯が拡がっていった。工場がふえると、付近で住宅地の新しい需要が起る。お世辞にも計画的につくられたとは言えないが、山林や農地が切りひらかれて、工場ができたかと思うと、まがりくねった林道や私道ぞいにあっという問に住宅街ができあがる。住民たちが都市計画の必要を痛感したころには、もう町のあらかたの形がつくられてしまったあとだから、東京周辺の衛星都市でどうしてこんな町づくりをしたのだろうかと首をかしげたくなるようなところがいくらでもある。しかし、しばらくぶりに相模原や八王子に出かけていくと、いつの間にできたのか、工場が街道筋にぎっしり並んでいて、よくぞこんなにたくさん仕事があるものだと感心するようになった。工場が集中すればするほど、人口はこれらの地域に集まる。労働力の不足に悩むこれらの工場は、それぞれのつてをたよりに農村地帯に求人にいく。そのたびに、たとえば森進一が集団就職で鹿児島県から東京へ連れてこられたように、農村地帯から大都会に移動する若者が多くなり、最初は会社の寮のようなところで都会生活を始めたのが、やがて結婚をして世帯を持つようになれば、付近に家を借りたり、建売住宅を買ったりして住むようになる。一坪一○○○円もしなかった土地が見る見る一万円になり、一○万円になり、ついには一○○万円にもなる。早くに土地を求めて家を建てた人はトクをしたが、その求めに応じて農地を手放した人はバカを見た。しかし、総じて言えば、工場や住宅の集中した地域に土地を持っていた農民は思わぬ土地の値上がりで土地成金になったし、とくに農地を売らずにじっと我慢をした人や土地の活用に秀でた人々は、祖先が残してくれた土地のおかげで信じられないくらいいい目を見るようになった。
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