このことはさまざまの変化と、それぞれに伴う悲喜劇を日本国中にもたらした。まず人口が大都会とその周辺に大移動をするようになったおかげで、全国を過密地帯と過疎地帯に二分してしまった。地方に行くといまでも、「この町は人口が十年来、減りもせずふえもしない状態が続いています」といった町に出食わすことがあるが、それは稀なほうであって、大抵は人口のふえる町か、減る町かのどちらかである。人口のふえる町とは次々と工場がつくられているか、大都会のべッド・タウンとして交通が便利な割に地価の安い町である。反対に過疎に悩んでいる地域は企業に見放されて工場も建たず、商店街も成り立たないような、うらさびれた地域が多い。
過密地帯の市や町は人口の集中のために、公共設備にお金がかかりすぎるといって、悲鳴をあげているが、過疎地帯ではこれ以上の地盤沈下を防ぐために、どこでも町や市の活性化運動に力を入れている。運悪くそういう過疎地帯に講演に行ったりすると、「センセイ。ちようどいいところに来てくださいました。いまわが町では町の活性化運動をやっているところです。センセイもどうやったら町が活性化できるか、みんなにぜひご意見をきかせてください」と市長さんや町長さんが無理なことを私に頼む。自分たちが三六五日、無い知恵を搾ってもどうにもならないことを、三十分前にこの町を訪れたばかりの他所者の私に何もできるわけもない。それに、私は「人間は自分の生れた町では成功できないものだ」という意見の持ち主だから、「この町をどうやったら活性化できるかと考えるよりも、どうやったらこの町から足が抜けられるかを考えたほうが早い」と減らず口を叩いたりする。居並ぶ聴衆のあいだから笑いがドッと沸き上がる。市長さん、町長さんには申しわけないが、これは本当のことだから仕方がない。過疎地帯を活性化させるためには、お役所が一つや二つ引っ越してくるとか、工場を一社二社、誘致するとかいった程度のことでは何ほどの効果もない。工業都市をそっくりつくりあげるだけの環境と条件と熱意をそなえていなければ、とても町を活性化することはできないのである。
しかし、こんなことを言うと、過疎地帯に住む人々をますます意気阻喪させることになるので、政治家のなかには「これからは地方の時代だ」とまことしやかな発言をする人がいる。もしそれがお世辞でなく、本気になってそう信じているとしたら、いよいよ助からないと言ってよいだろう。物をつくって大量に他地域に売ることに成功するか、観光資源を活かして他の地域からやってきてお金をおとしていく人たちを集められるか、そのどちらかができなければ、多くの人を養っていくことはできない。地方にいて、これらの条件を充たせないとすれば、「地方の時代はない」と言ったほうが正しいのである。
もっとも、大都会の町中や周辺都市がこれらの条件を充たせるかということになると、この点もだんだん怪しくなってきた。都市周辺の地価はあまりにも高くなりすぎたし、工場生産がオートメ化して昔ほど労働力を必要としなくなったので、工場の立地条件が必ずしも都市周辺でなければならないということはなくなった。だからといってどこであってもよいということではないが、いま日本の各地方でつくられているテクノポリスがうまく軌道に乗れば、工業は都会の産業という常識を打ち破ることになるかもしれない。熊本県や大分県のように、東京と遠く離れていても、地方指導者の誘導の仕方いかんによっては、半導体産業のメッカになることも全く可能性のないことではないのである。

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