売れる商品がよい商品であるという不動の信念


戦後「輸出立国」のもとで安さで売れる商品を
工業に取り組む日本人の精神と組織は大体以上のとおりであるが、物をつくるにあたってさしあたり目標にしているのは、第一に「売れる商品」の開発であり、第二に、「品質管理とコスト・ダウン」の徹底追求であり、そして第三は「輸出に生きる」ということであろう。
一口に「売れる商品」といっても、消費者の心理はさまざまであり、その国の所得水準によって消費者の欲しがる物も自ずから違ってくる。物をつくって売る人にしてみれば、国内で売れようが、外国で売れようが、売れてお金に換われば同じことであるが、さしあたり外国から原料や食糧を輸入しなければならなかった日本人としては、商品の輸出をしなければうまく回転がつかなかった。戦争中の「満州国はわが国の生命線」からいち早く「輸出立国」に転身した日本人は、国内市場への供給よりも、輸出に重点をおき、輸出できそうな商品の開発に全力を注いだ。自動車や家電製品の輸出は昭和四十年以降になってから本格化したが、戦争直後はまず、安い労賃と勤勉さを資本とした繊維およびその加工商品から着手した。この分野の仕事なら、戦前においてすでにランカスターに学び、ランカスターを追い越すレースに加わってきたからである。
軍需産業を捨てた戦後の産業界で真っ先に復興したのは、紡績であった。国内ももちろん衣料品の不足には悩んでいたが、日本の紡績は戦前から国際競争力を持っていたし、戦後は食うための飢餓輸出に甘んずる立場であったから、俗にガチャマンといわれたように繊維産業は沸きに沸いた。なかでも東レや帝人のような化繊会社は、ヨーロッパからいち早くナイロンやテトロンなどの化学繊維の技術導入に踏み切り、やがてイギリスやアメリカを向うにまわして国際競争に打ち勝っていけるだけの実力を持つようになった。また需要に合わせて商品を開発することに熱心であったから、雑貨の分野でも世界中に物を輸出することができるようになった。
日本人が最初に狙ったのは、安さで勝負をすることであった。一○○円ライターや一○○円ボールペンはいまもその名残りをとどめる商品だが、ミシンだろうと、クリスマス用のランプや飾りつけだろうと、とにかく安ければ、広い世界には買ってくれる人がいくらでもいる。発展途上国では壊れやすくても、一応、動いてくれる機械ならよく売れる。先進国でも、所得水準の低い人のほうが数のうえで圧倒的に多いから、似たような傾向が見られる。とりわけアメリカという金持ちの国の貧乏な大衆を狙ったからこそ、日本人はうまく工業生産を軌道に乗せることができたのである。
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