ところが、農業の斜陽化を一方に抱えながら、もう一方で工業的な躍進を遂げてきた日本では、農民をバッサリ斬り捨てることができない。農民離村がすすみ、国民の所得水準が向上するなかで、農作物の価格を市場原理に任せれば、農業経営はたちまち成り立たなくなる。幸か不幸か、戦後しばらくは食糧の不足が続いたので、戦争中に立法化された食管法をそのまま維持することができた。農民たちが「このままでは農業が成り立たなくなってしまう」と口々に騒ぐと、そのたびに農民票を背景にして議院入りをしたいわゆるコメ議員たちが、牛馬の労をとって米価の引き上げに奔走をしてくれる。
とうとう米価引き上げ闘争は年中行事化し、米価は市場原理を無視して政治上の駆け引きで決定されるようになった。米は日本人の主食だけに、米価を極端に引き上げると消費者の不満がつのる。ある時期までは主婦連によるおしゃもじ族のデモも一応は威力を発揮したので、政府はそのあいだにはさまれて、生産者米価を引き上げる一方で、消費者米価を据えおいた。そのために政府の買値と売値が逆ザヤになり、財政赤字は年々ふえるようになった。今でも米の買値と売値はほとんど同じだが、検査費用とか、運搬、倉庫、精米、その他、売買に要する費用、さらには休耕を強要するための補助金などはすべて政府の負担になっている。このために食管法を維持するための費用が、少なくとも年に三兆円はかかっているといわれる。
年々こうした不条理はくりかえされ、日本の米価はとうとう国際価格の十倍にも達した。日本の消費者はアメリカや香港やタイの人々に比して十倍も高いお米を食べさせられている勘定になる。それでも日本の消費者が大して不平を鳴らさないのは、お米の主食としての地位が大幅に後退して、米が少々上がったくらいのことでは家計にひびかなくなったからであるが、少々高いお米を食べさせられても世界一、所得の増大が進んでいる国の国民としてはやむを得ない、と多くの人々が観念しているからでもある。
一体、政治米価をどこまで維持するつもりだろうか。私など首のかしげどおしであったが、さすがに石油ショックや円高ショックで日本経済が頭を壁にぶっつけるようになると、米価の引き上げもスピードがおち、ついに全く足踏みするようになった。 しかし、それでも、いつも何がしかの上乗せがあって、政治的な決着に至るのが常識になっている。こうした悪循環はいつはてるとも知れず、農民や政治家も含めて日本人自身が当事者能力を失ったのではないかと危ぶまれている。はたしてと言うべきか、意外にもと言うべきか、解決の糸口はどうやら外国からやってきた。日本がいつまでも米の輸入に対して堅く門戸を閉ざしているのに業を煮やしたアメリカの精米業者たちが、何回かの打診の末にこのままでは日本側に全く自由化の意思のないことを確信したので、第三○一条の適用をアメリカの政府に訴えて出たのである。
これに対して日本側は懸命の防御体制を組み、政府ぐるみで申請受理の拒否をワシントンに働きかけている。もちろん、そのためにはウルグアイ・ラウンドでも審議を受け入れる旨の申し入れもしているが、仮に政治的な配慮から今回は取り下げられたとしても、いずれ二回、三回とくりかえされて、議論が次第に沸騰するだろうことはほとんど間違いない。「米の自由化」に対する論争は米だけの問題ではなく、日本人の輸出入に対する考え方、ひいては国家論・国境論にまでかかわってくる。いい意味でも悪い意味でも、日本人の思想をハダカにしてみせることになろう。
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