恐らくこれは、農業に基礎をおいてきたサムライ階級が米という実物で分配にあずかり、その分配が農作物の出来不出来に大きく左右されてきた長い長い歴史から生れた生活の知恵であろう。サムライの支配した社会では、一貫して農業が重んじられ、手工業は副と考えられた。そのあいだを取りもって暴利を占める商業は最も卑しめられた。封建時代にはメシが食えるかどうかが一番大切だったから、米をつくる人たちが一番大事にされ、米の出来不出来を左右する天候が「日常挨拶の言葉」にまでなった。そうした米の歴史を考えれば、米の生産を他国に奪われることに対して国民的な感情が働くというのは、決して偽りでも何でもないだろう。
農業社会が工業社会に変っても、農業社会で養われた自己保存本能はそのまま受けつがれる。日本人の自己防衛姿勢は「守るも攻めるもくろがねの」と軍艦マーチのセリフで言いつくされている。自分たちの生産に少しでも支障をきたすような現象が起ると、たちまち警報が鳴りわたる。銀行の自由化、証券の自由化、保険の自由化どれ一つを例にとっても、自分たちが相手の国に行ってやっていることなら相手の国の人にやらせてもよさそうなものであるが、攻めるほうは攻めても、守るほうも守って敵を一歩も領内に入れないようになる。こうした条件反射的対応の仕方を見る限り、鎖国の伝統がいまに尾をひいていると言うよりほかない。
それでもある時期は、農民の米価闘争に対して奥むめお女史率いるところの主婦連がおしゃもじ担いで対抗したことがあり、日本でも消費者運動が芽を吹くかに見えた。しかし、奥むめお女史の他界とともに、主婦連のデモは全く私たちの視界から消え去ってしまった。残念なことだが、その前後から日本の経済が急速に発展し、国内の所得水準が上がって、米に払うお金のことを気にしなくなったせいもあろう。
その結果は生産者としての日本人ばかりが表面に出て、生産者であると同時に消費者であるべきはずの日本人が消費者という立場を全く失ってしまった。日本人は右手だけが不釣り合いに巨大化したポパイみたいな「生産の鬼」と化してしまった。「消費者不在」となれば、どうしても消費者がワリを食うことは免れないのである。

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