そういう会社は一般に配当性向も高い。ところが、経営の実権が創業者の手を離れ、いわゆる「雇われ」によって経営されるようになると、経営と所有が完全に分離してしまうので、経営者と株主のあいだに一体感がなくなり、経営者は会社側にまわり、株主は、企業に融資をしている銀行と同じように、資本を提供した外部の人にされてしまう。
では、会社で働いている経営者も従業員もまとめて会社側かというと、株主や銀行に対しては会社側だが、労働条件や利益の分配については、会社内で労使に分れてしまう。労働者は組合側だが、経営者は資本家側、もしくは、会社側になる。その経営者たるや、株主に対しては会社側を代表し、従業員に対しては資本家側を代表するという、何とも煮え切らない暖昧な立場におかれている。こうしたどっちつかずの立場は日本独自のもので、個人のお金でも企業に投じられると、個人の手を離れて社会資本化してしまうからであろう。
個人の資本が株に投ぜられた瞬間から社会資本化することがいいことか、悪いことか、は見方によっていろいろだろうが、いい面もあれば悪い面もある。アメリカのように、経営者がボードで任命される制度の下では、社長は株主の利益を代表する。それはそれでよいのだが、ボードは社長が利益をあげてくれることを期待するから、その期待にこたえるために社長に任命された人は、その任期中に全力をあげて利益をあげなければならない。またそういうことができる人が有能な経営者であるとアメリカでは思われている。そのために社長に任命された人は、長期展望に関心を示すことが少なくなり、莫大な資金を必要とし、かつ減価償却や金利の支払いが利益を圧迫するような新規投資は敬遠するようになる。「アメリカの企業は経営が近視眼的である」とほとんどの日本人がみている。
ところが、日本のように経営が株主の手を離れ、企業が所有者でも何でもないサラリーマンあがりの経営者によって運営されるようになると、株主に対しては一定の安定配当さえ保証すればよいということになり、次の投資をどうするかの裁量権は社長に任される。社長になった人は会社の将来の利益を考えて、目前の利益をある程度犠牲にしたとしても、株主から批判を受けることはほとんどない。むしろ長期展望に立った大投資をやり、それを完成して社業に寄与できたら、賞賛の的になる。その代りいくら利益をあげても、会社の将来のために資金の大半が留保され、株主への配当は後回しにされてしまう。

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