軍事費のために多くの予算をさくことは時代錯誤になりつつある
日本人が防衛費を GNP の一%以下におさえ、戦後この方、余力のすべてを民需の発展に注いできたことが経済の発展を助けたことは、事実であろう。武器の生産のために注ぎ込む技術力やお金を、家電製品や自動車や精密工業製品に傾けた結果、日本の今日があったとすれば、それは日本人の幸運でこそあれ、他人に非難されるような性質のことではない。前世紀からついこのあいだまで、軍事力を背景にした国だけが世界の一等国になったが、それに対して、日本は軍備を禁じられたので、やむなく平和産業に力を注ぎ、農業社会から工業社会に脱皮することによって「軍事力を持たない世界で初めての一等国」になった。これは平和を願う人々に祝福されて然るべきことでこそあれ、やましいところなどどこにもないと私は思う。
「武装することによってのみ平和が保たれる」と米ソ両陣営が共に信じ込んでいたあいだ、日本だけが要領よく立ち回っているように見えないでもないが、しかし、武力を背景にしないで一等国になれたということは、日本が新しい実験に成功した何よりの証明である。私はそれは人類が月の世界や火星に行けるようになったことよりも、もっとずっと重要な意味を持っていると思っている。米ソ共々、軍備競走でへトへトになって、冷戦が雪解けに変り、核軍縮の調印や最近のような一方的な軍縮宣言が始まると、軍事費に膨大な予算をかけることがほとんど意味をなさなくなってきた。しばらくすれば、日本のやりとげてきたことが二十一世紀になって多くの国々が目指すであろう新しい目標であることに誰しも気づくはずである。
とすると、まさしくスミスが喝破したように、軍事費は「社会の状態によって違い、その進歩が違うにつれて大いに変ってくる」。もし戦争の脅威がなくなるとすれば(もちろん、いきなりそこまで考えるのは楽観的すぎることは確かであるが)、少なくともその脅威がかなりの程度薄れるとすれば、軍事費のために多くの予算をさくことは時代錯誤のそしりを免れられなくなるだろう。もはやどこの国でも民衆の要望を屈服させることは、できなくなった。べトナムとアフガニスタンで、米ソ両陣営とも、軍事力が万能でないことをそれぞれ悟らされたし、中国やポーランドや東ドイツで次々と起った事件で、野蛮な国民より、野蛮で時代遅れの政府要人のほうがずっと多いことが全世界に知れわたるようになってしまった。
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