第63回
「本気」との出合い
先日頂いたメールの中に
「山崎さんが、ユニークな個性の持ち主だから、
Qさんに魅かれたのでしょう、
もっと自分の生い立ちなど、書いてください」
「コラム50回拝見、とても銀行出身の人とは信じられません」
おことばに甘えて
「本気」との出会いまでを、駆け足で書かせて頂きましょう。
山崎は1930年、長崎県佐世保市に生まれました。
その頃佐世保に講演に来られた、
東京S学園の小原国芳先生(後に玉川学園創立者)
の講演に感動した母は、
子供たちの教育は「自由と人格主義のS学園」に、と決め、
山崎3歳の時、一家8人、東京・世田谷のS学園へ移りました。
兄姉は編入学し、山崎はやがて、幼稚園に入園しました。
園長は「窓際のトットちゃん」黒柳徹子さんの
恩師小林先生ですから「いたずらっ子歓迎」の型破りの教育。
小学校に進めば、当時は珍しい男女共学30人クラス、
平均点より得意技が評価されました。
5年生の時、太平洋戦争が始まりました。
次は中学のはずが、なんと高等学校とは。
当時中高一貫の7年制高等学校が有ったのです。
(この制度はQ先生の台北高と同じ)服装も背広にネクタイ、
それが制服でした。
先輩に作家大岡昇平さんがいました。
S高校尋常科(中等部)2年目に、
父の郷里・佐世保郊外に疎開したのです。
汽車通学でしたが、中学生と女学生は別々の車両に。
「男女七歳にして、席を同じうせず」が守られていました。
すでに靴はなく、地下足袋を履いて通学しました。
佐世保は「海軍の街」でした。
中学の上級生は、海軍兵学校を目指し、
予科練に送り込まれました。
学校は閉鎖され、我々中学2年生は、
勤労動員で佐世保の海軍工廠で働きました。
原爆が広島・長崎へ。
1945年8月15日敗戦、進駐軍上陸。
中学校に戻ったが、ストライキ、混乱の中で目標を失い、
父を失い、落ち込んでいた中学3年生。
そんな時に、
母が「大事な本だけど、上げるよ、読んでごらん」
それが「静香詩集」でした。
ページをめくるうちに、慰められ、励まされました。
中でも「本気」の一節にこころを捉えられ、何度も口ずさみました。
「本気でやれば、大抵なことは出来る」
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