中国人と日本人 邱永漢

「違いの分かる人」へのヒントがあります

第86回
初期の対中国投資はなぜ失敗したか

もちろん日本人が貧乏を恥じたり、
お金のことを口にしなかったのにはそれなりの背景がある。
体面を重んずるサムライの気風が
庶民にまで徹底したということもあるが、
日本のように働けばちゃんとメシの食えるところで
貧乏をすることは、
真面目にやっていない証拠と見られるのが辛かったから
と解釈したほうが真相に近いだろう。

日本のように「向こう三軒両隣り」で成り立っている社会では、
法を犯してお上から罰せられるより、
村八分にされることのほうがずっとおそろしかったから、
日本人は仲間からはずれることを好まなかった。
農民はもとよりのこと、
職人の世界でも親方から見放されることをことのほか嫌がった。

親方の言うことさえきけば、
職にあぶれることはないし、メシを食いっぱぐれる心配もない。
そのかわり農業社会では、
毎年同じことのくりかえしだったから、
仕事の量は大体きまっていた。

もし火事や地震がなかったら、
職人も職にあぶれるような目にあわされたかもしれない。
しかし、実際には、しよっちゅう火事があったし、
そのたびに槌の音は空高く響きわたったから、
職人たちは朝、目が醒めると仕事にありつけた。

日本の職人たちは勤勉であったばかりでなく、
完壁主義を身につけていたから、
職人気質を絵に描いたような凝り性を発揮して物づくりに励んだ。

こうした職人気質は伝統工芸とか、
宮大工の仕事にその片鱗を見ることができる。
しかし、こうした職人気質が、
どれだけの値打ちを持っているかは、
日本人が本格的に工業化に取り組むまでは、
日本人自身にもわからなかった。

日本人の職人気質が工業生産の全分野で
遺憾なく発揮されるようになったのは、
敗戦後日本人が四つの島に九千万人を押し込められ、
突然のピンチに追い込まれてからのことである。

さきにも述べたように、
日本人は伝統的に文化の輸入国であり、
輸入した文化を日本流に消化して
独自のものをつくりあげてきた歴史がある。

戦後、日本人がやったことも
基本的には同一線上の反復にすぎないが、
たまたまそれが全国的に工業化を推し進めていた時期であり、
工業化によっていままでには想像もできなかったような
巨大な富をもたらしたので、
日本人自身が気がついてみたら、
工業生産のチャンピオンになったばかりでなく、
アメリカと世界のトップを競う
大金持ちの国にたっていたのである。





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2012年11月2日(金)

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