“蕎麦屋酒”の著者がプロ顔負けの美味探求

第245回
豆腐から蕎麦へ

豆腐作りは面白く美味しい思いができたが、
後片付けが面倒だった。
水に漬けた大豆をフードプロセッサで粉砕して、それを煮るが、
フードプロセッサの刃の掃除など、結構手間がかかる。
あるとき、宮城屋の豆腐に出会って、
こんなに美味しい豆腐があるのかとびっくりしたと同時に、
自分で豆腐を作るのが無駄だとわかり、
豆腐作りはやめることにした。

しかし、今でも、宮城屋の豆乳を用いて
くみ上げ豆腐をその場で作ることはたまに行う。
豆腐作りの次に興味を持ったのが、蕎麦打ち。
蕎麦は、昔からよく食べ歩いていた。
美味しい蕎麦屋があると聞けば、時間をつくって訪問していた。
巷でも蕎麦打ちがはやり始める時期でもあり、
蕎麦打ち教本が出始めていた。
1993年に本屋に柴田書店の「OYSYそば」が並んでいて、
ちょうどいいと即購入。
最低限必要な蕎麦打ち道具をそろえた。

蕎麦打ちは、初めはなかなか旨くつながらず、短く切れてしまい、
当時中学生だった娘の同級生で
老舗旅館の家に生まれた女の子に食べさせて、
「これは蕎麦掻なの?」と言われてしまったこともある。
今考えるに、最初の頃は加水の加減と水回しが下手で、
水分が不足している箇所がでてきて、
そこから蕎麦が切れてしまって、長くならなかったようだ。

蕎麦の汁も自分で作るようになって、
色々な醤油、味醂、昆布、鰹節の組み合わせを試したりして、
だんだんと出汁に対する経験が深くなってきた。
蕎麦のメイリングリストに入って、
同好の志と情報交換を行ったり、
蕎麦屋に行って色々と話を聞いたりして、
蕎麦切りに対する理解が深まる。
そして、美味しい蕎麦を目指して、
蕎麦粉を色々な製粉所から取り寄せて試すうちに、
蕎麦栽培に興味を持つようになり、
ついには、メイリングリストの仲間を誘って、
奥久慈の大子で蕎麦栽培を始めて試みた。
このときは、台風に直撃されたこともあって、
十数キロの蕎麦しか収穫できなかったが、
とても旨い蕎麦切りが体験できた。
1996年のことであった。

それ以来蕎麦栽培に夢中になり、
栃木県のもと会社の同僚を中心とした仲間を誘って
蕎麦栽培を主宰するようになった。
この原料から製品まで全て自分で作るという体験は、
蕎麦切りという美食の小宇宙を根本から理解するのに
とても役にたった。
この1996年は丁度栃木県で単身赴任を始めた年だったが、
この単身赴任生活が料理を本格的にやるきっかけとなった。


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2005年7月29日(金)

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