“蕎麦屋酒”の著者がプロ顔負けの美味探求

第474回
築地市場移転のウラ側

先日、豊かな東京湾再生検討委員会食文化分科会の
有志の会食があった。
この会は東京農大の小泉武夫先生が座長を勤め、
築地の仲買や江戸前料理店、
有識者からなるメンバーから構成されていて、
途中でその会の存在を知ってから
オブザーバーで参加をしていたものだ。

今年は委員会活動は終わりになったが、
魚を中心とした日本の食文化について語ろうと、
宴席は続いている。
今回は新橋の割烹料理屋が会場となった。
向田邦子さんが愛したという料理は極めてオーソドックス。
人参をさっと煮て硬いままに冷まして汁を含めた前菜が秀逸。
さつま芋のレモン煮、お造り、鮟肝と海鼠、鮎の風干し、
キンキの煮物、と和食の定番が出たが、
いずれもとてもいい素材を使っていて、いい塩梅の味付けだった。

その席で出た話題で、議論が盛り上がったのが築地の移転問題。
2012年以降に豊洲に移転するという話は知っていたが、
その経緯については驚愕する事実があった。
そもそも築地の場内市場ができたのは、
大正12年の関東大震災がきっかけ。
この直前に公営の中央卸売市場の開設へ向けた
「中央卸売市場法」が制定されて、
東京市が指導・運営することになった矢先の出来事だ。
これまで徳川幕府のもとに栄えていた日本橋の魚河岸が消失し、
芝浦に仮設市場が設けられた。
しかし、交通の便が悪いことと、狭いことから、
東京市は海軍省から築地の用地の一部を借りて
芝浦から魚市場を移転させ、
暫定市場としたことが築地の歴史の始まり。
昭和10年に現在の地に中央卸売市場が正式に開設された。

このように、70年の歴史を誇る築地中央卸売市場が
何故豊洲に移転することになったのか?
築地市場は魚の流通の歴史が刻み込まれている
東京都民が誇れる施設であり、
いまでは海外からの観光スポットともなっている。
日本の文化遺産とも呼べる場所を
そう簡単に変えるのは犯罪ではないか、
と食文化分科会の席で議論が白熱した。
そうしたら、これまで知らなかった事実を知らされて
愕然となった。
築地の移転計画は、
石原都政になってから急浮上してきたもので、
それ以前は築地の場所は変えずに、
建屋を頑強で広く建て替える
という計画がすでに進んでいたのだ。


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2006年6月22日(木)

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