“蕎麦屋酒”の著者がプロ顔負けの美味探求

第512回
美味しさを究めるには 〜その2 
日本の伝統食文化を理解する

日本人は自然と共生して生きてきた歴史がある。
自然を征服しようという思想の西洋人とは違った考えであり、
自然に畏敬をいだいて、様々なことを学んできた。
自然を改良して農村を創ったが、
それは破壊ではなく、
あくまで長年維持できるように、
自然のなかの一部に人間社会が溶け込むという形をとっている。

自然界には植物や動物の食の連鎖というものがある。
植物の種、果実、葉、皮などを小動物が食べ、
その小動物をさらに大きい動物が食べる。
植物の落葉や動物の糞は植物の栄養にもなっていく。
そのようにして、土壌には栄養素が蓄えられていく。
それが雨で流れて、川に入り、
だんだんと下流へ向かって流れ、ついには海に栄養素が届く。

海では植物性プランクトンが
山から流れてきた栄養を摂取して増殖する。
それを動物性プランクトンが食べ、
その動物性プランクトンを小魚が食べる。
魚もだんだんと大きくて強い魚に食べられていく。
山がよければ海の幸も美味しくなる。
海水を多量に体内に流入、流出している牡蠣は、
山の栄養によって美味しくなる。

このような自然の食の連鎖の最後のところに
人間が割り込んでいる。
江戸の頃までは、
日本人は自然界の食の連鎖を大切にして
自ら自然の一部として生活を送ってきた。
漁業は、魚が絶滅しないような配慮を漁師が行い、
農業は自然と調和するような農村の形成をして、
食の連鎖が途絶えない配慮を進めてきた。
ところが、黒船が来航して明治維新となることから、
西洋文化が日本にも入り始め、
日本の伝統的な自然と共存する生活がだんだんと失われてくる。
大正、昭和と時代は進み、
特に戦後の復興では、米国のやり方をまねた産業振興と、
それに伴う大規模公共工事の道を日本は進み、
漁業と農業は大きく衰退してしまい、
食の連鎖は途切れそうになってきている。

西洋思想では、キリスト教とギリシャ合理主義が根源にある。
神という超越者が自然である世界を創り、
自分のコピーである人間を創り、
人間に利用されるものとして動物を創ったとされている。
つまり、神−人間−動物という上下の序列があり、
人間は自然を克服し、支配する立場にある。
人間自身が自然の中に組み込まれていることを忘れているわけだ。
仏教では神という絶対のものはおらず、
人間のうち努力をして悟りを開いたものが仏になる。
人間は自然の一部であり、
自然に畏敬を持って生きていくことになる。
このような東洋思想を受け入れて、
日本人は二千年を越す農作、漁業の歴史のなかで
自然のなかの食の連鎖の一部に自らを組み込んできた。

例えば、徳川家康が天正18年(1590)に
江戸に幕府を開いてから、
江戸の発展に伴って進めた町づくりの施策として、
土木工事に加えて、農業と漁業の振興政策があげられる。
幕府ができる前の江戸は、
渡良瀬川、利根川、荒川、綾瀬川、入間川と
五本の大きな川が狭い地域に流れており、
その間は広大な荒涼たる湿地帯であった。
大雨になれば河川は氾濫し、土砂を運んでくる。
幕府はこの湿地帯を50万人が住める都市に
半世紀の間につくり変えた。
そのために、治水工事を行って川の流れを変え、
周囲を肥沃な農耕地に変えて行き、
家康の故郷に近い佃村と大和田村の漁師を江戸に呼び寄せて、
東京湾の漁業を振興させた。

この頃の農業、漁業はまさに、
人間自身を自然の食の連鎖のなかに巧みに組み込み、
その連鎖が維持できるように配慮されていた。
このように、人間の生活が自然と共生できていることが
日本の食文化の特長であり、
江戸の庶民は東京湾で獲れた旬の魚や、
周囲の農耕地帯の旬の野菜を自然の恵みとして
ありがたがる生活をしていた。
旬の美味しさとは、
自然との共生による日本の食文化の歴史が培ってきたものであり、
我々自身が自然の一部になっていることを感じて、
より一層美味しさを感じる。
野外での食事が美味しいのも、
自然との一体感をより多く感じるからと思える。
和食の料理屋が店内に季節のしつらえをするのも、
自然との一体感により、旬を感じてもらうためだ。


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2006年8月15日(火)

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