死ぬまで現役

老人を”初体験”する為の心構え




第45回
悪食圏にもあるうまい店

美食圏を歩く時は以上の通りの要領が必要だが、
悪食圏を歩くときもはじめからあきらめてかかることはない。
というのは、どんな悪食の国に行っても、
必ず美食家がいるものであり、
そういう人たちが比較的ましだと思っている
レストランがあるものだからである。

たとえば、モロッコとかアルジェーとか、
チュニスといった地域は、
もとフランスの植民地だったところだから、
母国の影響を受けて、
少しはましなものを食べさせてくれるのではないかと
期待して行った。
しかし、ガイド・ブックに載っている店に行っても、
コンシェルジェに紹介されて覗いた店でも、
一軒として満足のいく店はない。

フランス料理店に入っても、
すぐ対岸のニースあたりで食べさせてもらうものとは
似て非なるものがでてくる。
一日か、二日おれば、
「ここはやっばり悪食のエリアなんだな。
フランス人の旺盛な食欲と教化熱をもってしても
どうにもならなかったんだな」ということがよくわかる。

しまいにはあきらめて、人にきかないで、
行き当たりばったりに、
レストランにとびこんでみることにした。
こうなると、門構えを見たり、
門前に掲げられたメニューの字の書き方や
値段のつけ方まで気をつける。
外からしか見えないが、店のインテリアや調度で
どのくらいの店か判断をする。

「この店なら、少しはましじゃないかな」とか、
「入っている人の身なりもいいから、
きっと昨日の店よりはいいわよ」と妻と相談しあう。
そうやって入った店の中には、
ガイド・ブックには紹介されていないが、
紹介されている店よりずっと程度のいい店がいくらでもあった。

料理屋のうまい、まずいは門構えとか、
ノレンとか、メニューの書き方を一瞥しただけで、
あるていど想像がつくし、とくに、最初のオードブルとか、
つき出しを一口、口に入れただけで、
もうどの程度の味かわかってしまう。

アメリカのように、ただ、
だだっ広いだけで大味な店しか並んでいないところに行っても、
少しはましな味に出合うことは可能である。
アメリカは、世界中の諸々の民族、
諸々の人種があつまってできた国だから、
どんな国の料理でもある。
ところが、どこの国の料理でもアメリカに入ってくると、
大雑把な、無神経なものになってしまう。
フランス料理だろうと、中華料理だろうと、その例外ではない。
やはり、食べる人の気風が料理に影響するのであって、
食べる物が食べる人の気風に影響するものではないようである。





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2015年3月4日(水)

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