死に方・辞めかた・別れ方  邱永漢

不動産から学ぶ経済の成り立ち

第19回
銀座と浅草の違い

その点、銀座はどこの田舎に向けられた玄関口でもない。
銀座こそは、東京の文化の中心であり、
流行の中心である。

服部時計店でも、資生堂でも、
本社が銀座にあるというだけで
時代の先端を走っているような感じがあった。

流行の先端にいるというイメージをあたえる必要のある企業は、
戦前から本社の所在地を銀座におくならわしがあった。

そういった意味では、
銀座は長い聞、東京の中心地であり、
したがってまた日木の中心地であった。
しかし、時代が変わると、流行の震源地も変わる。
流行を変える張本人は流行をつくる若者たちであるが、
そうした若者たちは流行を変える才能は持っていても、
たいてい、お金は持っていない。

お金を持たない人が、
流行を変えるための木拠地をつくろうと思えば、
お金のかからないところに動くよりほかない。

そういう人たちは、
人の集まるところに自分のほうから出向いて行くよりも、
ムードのある町を探して、
そこに本拠をかまえる。
そうやって選ばれたのが青山通りであり、
表参道、神宮前といったところである。

私の若い友人たちで、
無名の頃にデザインの店やファッションの店をつくった人は、
ほとんどがそういう地域に店を構えた。

そういう地域の土地や家賃が安かったからであるが、
流行の震源地として青山、原宿がかたまってくると、
本店を青山、原宿におくのが東京のハヤリになり、
その分だけ流行の中心地としての銀座の権威が色槌せた。

ことに、若者の町が銀座から新宿に移り、
さらに若い人たちが数多く郊外に住むようになると、
郊外から出てきた人々を、
新宿や渋谷や池袋のターミナル・ステーションで
ストップさせる町づくりができるようになった。
そうなると、銀座や新橋や京橋や日本橋が
目立ってさびれて行った。

銀座に集まる人が日増しに少なくなり、
「銀座は第ニの浅草か」と気の早い人は、
銀座を見捨てるようになった。

むろん、「腐っても鯛」というから、
銀座も一年や二年で浅草になってしまうわけではない。
気の早い人は、そういった未来図を予見しているが、
もともと東京は江戸ッ子の町ではなくて、
田舎から出てきた人たちの町であるから、
東京の人より池袋の田舎の人とか、
名古屋の人とか、大阪の人が
銀座にあこがれて集まってくる。

ちょうどニューヨークの五番街がそうであるように、
銀ブラをしている人々も、
銀ブラをしているお客を相手に商売をしている人々も
田舎から出てきた人たちが多いのである。
したがって人気歌手の人気が下火になっても、
まだドサ回りが残っているように、
流行の町としての銀座の生命は
そう簡単に絶えてしまうことにはならないと思う。

しかし、都会の人は誰でも移り気だから、
人気の中心地は次々と動いて行き、
若者の集まる町といったら、今や渋谷と六本木で、
少しこまかく追跡する人なら、
代官山と広尾といったところであろう。

ただし代官山や広尾がそのキザシを見せただけで、
たちまち地価が先走りをしてすっかり高くなってしまったので、
金のないデザイナーや起業家たちには、
歯が立たなくなってしまった。

だから、また新しいファッションの町を探して、
またまた大移動をしている。
おそらく渋谷区の、恵比寿から六本木に抜ける広い通りだとか、
目黒駅から山手線に沿って恵比寿に抜ける通りだとか、
まだ人通りは少ないが、
そういう条件を備えた地域が
未来のファッション通りとして
ひらけて行くことになるであろう。





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2013年8月6日(火)

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