服飾評論家・出石尚三さんが
男の美学をダンディーに語ります

第325回
余生の練習時間

余生をどんなふうに過そうかと、
考えたことがありますか。
もちろん私だって考えます。
でも「余生」はいつからいつまでなのか、
決めにくいところがあります。
今日から余生だと自分で思えばそうであるかも知れませんし。
だからなのでしょうか、
余生という言葉には、
明るい希望の響きを感じます。
少なくとも私は今から余生を心待ちにしているのです。

余生をどう生きるか。
なにごともそうですが、
余生にもあらかじめ練習が必要ではないでしょうか。
ハイ今日から余生と言われて、
すぐに親しめるものでもありません。
余生の練習、楽しいではありませんか。

もちろん私にも日々の生活があります。
「今ちょっと余生で・・・」
とは言えない場合だってあるでしょう。
そこでとりあえず1日のうち1時間だけ、
余生のレッスンをする。
24時間の1時間くらい、なんとでもなるでしょう。
朝、7時に起きるところを6時にすれば、
これで1時間が生まれます。
夜の9時からTVを観るところ、
10時からにすれば、これで1時間。
11時就寝のところを12時にすれば、これで1時間。

さて、時間はできた。
次に何の練習をするか。
余生とは何か。
少しキザな表現かも知れませんが、少年の夢ですね。
子供の頃から好きだったことを、
もう1回はじめからやってみる。
好きこそものの上手なれ、と言うではありませんか。
好きなことであれば
最後まであきることなく続けられるはずです。

たとえば私の場合、
子供の頃からロビンソン・クルーソーが好きでした。
やっと文字が読めるようになって、
童話仕立てのクルーソーを繰返して読んだものです。
そのせいか今でも漂流記には根源的な興味があります。
余生は漂流記の研究に奉げるか。
そもそもどのくらいの数の漂流記物語があるのか。
もっとも古い漂流記はどれなのか。
それはフィクションか実話なのか。
実話だとするならモデルは誰なのか。
こうした漂流記研究を1日1時間だけやることにする。
余生のレッスンはまた新しい生きがいが生まれてくるはずです。


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2003年8月23日(土)

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