虐殺で深い溝が
陳儀は自治を要求する人民代表に会って、色よい応対をする一方で、南京にいる蒋介石のところへ援軍の要請をした。一週間もすると、彭孟緝(のちに駐日大使をつとめている)に引率された精鋭が基隆に上陸し、形勢は一変して掃蕩戦がはじまり、手向かう者は一切、見境なく銃弾を浴びせられた。
そればかりでなく事件を収拾するために組織された二・二八処理委員会のメンバーたちは、家の中から拘引されてそのまま大半が行方不明になってしまった。その場で銃殺された者もあれば、死体にハリガネを通して重石をつけて淡水河に投げ込まれた者もあった。私の東大の先輩の中にも、台湾大学の文学部教授をはじめ、三人の犠牲者が出ている。
このとき、殺された台湾人は五千人とも一万人ともいわれ、これだけの犠牲者が出るということは狭い台湾で身内の誰かに必ず死者や牢獄に繋がれる者が出たということであり、この事件を契機として、本省人と呼ばれる台湾の人たちと、外省人と呼ばれる戦後、大陸から渡ってきた人々の間に深い溝ができ、この溝を埋めるのに以後、何十年という歳月を必要とするようになった。
現在でもこの溝が完全に埋まったかどうか、人によって見方が違うだろうが、その後、台湾に遷都した国民政府にもあれこれと隆替の歴史があり、またあれから四十年近い歳月が経過し、外省人の中にも台湾生まれが多くなって、もはや外省人支配とも言えない人口構成に変わってしまったので、今では「本省人と外省人」という区別よりも、「台湾と大陸」「台湾政府と共産政府」といったコントラストのほうがずっと鮮明になっている。
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