台湾から香港に亡命するとき、私がポケットにしのばせていた全財産は、米ドルで千ドルにすぎなかった。昭和二十三年の香港では、五千ドルも出せば尖沙嘴の高級住宅街に古い家を一軒買うことができたから、そんなに小さなお金ではなかったが、それが全財産であり、それを動かしてお金を儲けた経験が全くなく、その能力も皆無に等しく、その上、二度と再び故郷の土が踏めない身ともなれば、こんな心細いことはなかった。私は何としても生計の道を見つけ出さなければならなかった。
当時、香港にファーイースト・エコノミック・レビューという英文雑誌があって、そこの編集長兼発行人にハルパーンという人がいた。この人が中国や台湾の動向に非常に関心を持っていて、私が台湾の経済事情をいろいろ説明すると、熱心にきいてくれて、英文でリポートをまとめてもって来ないかと言われた。
何もやることのなかったときなので、喜んで週一回ずつ英文でタイプに打って香港島にあるハルパーン氏の事務所に届けた。すると一か月目に原稿料ですといって香港ドルで百ドルの小切手をくれた。それが香港にきて私がはじめて稼いだお金であった。
私は小躍りして喜んだが、喜びの声をあげた途端に目の前がかすんで物がぼんやりしか見えなくなってしまった。心配のあまり眠れない夜が続いた疲れがドッと出てきたのかもしれない。やむを得ず眼鏡店にかけ込んで、眼鏡をつくってもらったら、折角、稼いだ百ドルのうちの八十五ドルを持って行かれた。将来を見通す力どころか、目の前の物を見る目までかすんでしまって、私は異郷の街の真ん中で立ち往生してしまった。
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