助言は不要だった
ところが、これがとんでもない見当違いで、事務所をひらくと、朝から晩まで会員企業のトップの人たちに押しかけられ、昼食をとろうにも、あとの人が待っているので、私は食事の時間もないほど仕事に忙殺されるようになった。今、考えてみると、あの時期は高度成長のただ中にあり、食い盛り、伸び盛りの企業が拡大また拡大で全力疾走をしている最中だった。
多忙な時期は約二年ほど続いた。しかし、昭和三十九年に入ると、戦後、順調に伸びてきた日本の産業界が今までに体験したことのないピンチに頭をぶつけるようになった。株は大暴落をするし、中小の上場会社は業績が悪化して社長たちは金ぐりにとびまわるようになっていた。私は顧問先のトップたちと絶えず接触していたから、景気が悪くなるのが手にとるようにわかった。
こういうときこそ自分の出番だろうと、私はひそかに期待していた。ところが不景気の波が押し寄せると、各企業はいっせいに冗費のカットに力を入れるようになり、二、三か月のうちに三十社の顧問先のうち何と十八社から顧問費の一時停止を申し込まれた。社長さんと個人的に親しくしている関係で、社長自ら電話をかけてくるものもあれば、一通の文書で断りを言ってくるものもあった。
もらいなれたお金をカットされるのも、もちろん気分のいいものではないが、何よりも私にとってショックだったのは、会社の経営にアドバイスするためにやとわれたコンサルタントではなくて、お金の儲かっているときに、税金に払うくらいなら、コンサルタントの先生を喜ばせてやれ、といったくらいのつもりで支払われているコンサルタント料であることを、まざまざと見せつけられたことであった。
それを知った以上、もはやコンサルタントをやっている気がしなくなった。私は残りの会社にも断りを言い、コンサルタントの会社を閉じてしまった。幸い、ビルは自己所有だったし、事務所をやめれば、その分だけ家賃収入はふえる。私は家に引っ込んで一年間、歌謡曲をつくって身過ぎ世過ぎをすることにきめた。
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