マンネリ化に見切りをつけて
こうして部数をふやし、広告をとり、売上げをふやすことによって約二年間で『話の特集』は月々の収支に関する限りバランスのとれるところまで恢復した。この二年に私はあわせて千九百十万円のお金を使った。
しかし、その頃から矢崎君は有名雑誌の編集長としてテレビにも盛んに登場するようになったし、雑誌の宣伝をするよりも自分の売り込みに熱中するようになった。おかげで『話の特集』のマンネリ化も激しくなったし、何よりも他の雑誌がサイケ調を大胆に取り入れるようになったので、『話の特集』がすっかり目立たなくなっていた。私は腹立たしくなって何回か本人にも注意したが、もはやこれまでと思って、ある日、矢崎君を呼んで、
(一)編集長を永六輔に代わってもらう。
(二)『話の特集』がこれだけ有名になれば、欲しがる出版社もあるはずだから、譲渡して私の注ぎ込んだ千九百十万円の回収をする。
(三)『話の特集』のジャーナリズムにおける使命は終ったと見て、廃刊にする。
(四)君にあげる。
以上四つの条件のうち、どれかにしようじゃないかと言った。矢崎君は自分のことで頭が一杯だったから、もちろん、一にも二にも賛成するわけはなく、三つ目の廃刊に対しても、廃刊にするくらいなら、僕にくれませんか、と言った。
「それもいいだろう。じゃ君あげる」と言って、私は千九百十万円かけてつくりあげたものをそっくり矢崎君にあげた。
『話の特集』は今も続いているが、もう往時の面影はない。人間も年をとるが、雑誌の年のとり方は人間よりずっと早い。矢崎君は「邱永漢さんに協力してもらっていた頃」などという書き方をしているようだが、事実は以上述べてきたとおりである。才能と人柄はまた別のもので、私は別に何とも思っていないが、矢崎君のある時期の才能を最も買ったのは私であったことに変わりはない。彼のためにマンションが三室くらい買える大金を注ぎ込んだのは、数々の文士たちの中で私だけだからである。
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