死に方・辞めかた・別れ方  邱永漢

去り際の美学

第1回
まえがき

「死に方・辞め方・別れ方」は、
昭和五十七年三月号から昭和五十八年十月号まで
『プレジデント』誌に二十回にわたって連載をした。

たまたまうちの長男の結婚式が
昭和五十六年の十一月一日にホテル・オークラで行われ、
その披露宴のスケジュールについて、
苦心惨憺という繰どではないが、
色々と神経を使ったので、
お客様に退屈を感じさせないで冠婚葬祭の行事を運ぶ実例として、
このユッセイのとっかかりにしようと思い立った。

「結婚式」と「死に方」とどこに関係があるのか、
ときかれると、ちょっと困るけれども、
息子の結婚式には、親の頭の中で自分の外か静が一瞬、
矢の早さでかすめてとおる。

世の中には、一生、結婚をしないで独身をとおす人もあるし、
結婚しても子供ができない人もある。
また、息子が結婚をしても年をとった
という感覚を全く持たない人もあるだろうが、
息子の結婚は、三代目をつくる
公認の儀式みたいなものであるから、
親の方に実際に年をとったという感覚がなくとも、
心理的には、代替わりの時期を意識させるものがある。

少なくとも、私の場合は、娘の結婚の時には感じなかったものが、
息子の時には胸にこたえた。
併せて、結婚式は年々、盛大なものになっているが、
その割りには新機軸といえるようなアイデアが少ないので、
自分たちの苦心のあとを見てもらおうという気持ちもあった。

実際に書き出して見ると、
結婚式の話だけで何と七回も続いたので、
のちに『子育てはお金の教育から』
(KK・べストセラーズ)がべストセラーズの仲間入りをして、
『女性セブン』の記者がうちの子供たちから取材をした時に、
「お父さんとつきあって、どういう印象をお持ちですか?」
ときいたら、うちの長男は、「ハイ、勉強になります」と答えた。

「どういう具合に勉強になるのですか?」
と記者が更に攻める手を休めないでいると、
「だって、僕の結婚式は長かったといっても、
たったの四時間ですよ。
それを父は七ヵ月に延ばして飯のタネにしたのですから、
勉強になりますよネ」
週刊誌に出た記事を見て、さすがの私も吹き出してしまった。

「息子の結婚式には親の死に方が潜在意識的にこもっている」
と私は本文の中でも書いているが、
「結婚式」を人生の起点とすれば、
「葬式」はその終着駅のようなものである。
人生には片道切符しかなく、
鉄道のように折り返しがきかないから、
もう一度やりなおすことができない。

紆余曲折はあっても、
一人の例外もなく確実に終着駅に辿りつく。
しかし、最後には終着駅に辿りつくとしても、
「職業」と「結婚」の二つの面で
途中下車を余儀なくされる場合がある。

「辞め方」と「別れ方」は、
そうした一生ものと思ったコースから突如、はずされるか、
もしくは、はみ出してしまうかした時の、
男の生き方を追求したものである。

どちらも、かつて人生五十年といわれた
時代にはさして間題にならないことであった。
五十五才で定年になっても、
あと三年か五年余生を楽しむ程度の長さしか残っていなければ、
ああでもない、こうでもない、
と悩んでいるうちに死んでしまう。

しかし、男の平均寿命が七十四才余りともなれば、
一生の仕事と思っていた職場からほうり出されたあと、
まだ二十年も残っているのだから、
どうしたってこの期間を上手に生きる智恵が必要になってくる。

同じように、亭主が六十才前に
死んでくれることがわかっておれば、
亭主に多少の不満があっても
ここがガマンのしどころということで粘り抜くことができるが、
子供も独立し、もう世間体をはばかる必要もなくなれば、
「粗大ゴミ」を相手にあと二十何年を辛抱しようと思わない女性が
ふえたとしても決して不思議ではない。

「人生が凡そ二十五年延びたこと」
が私たちの生活にもたらした変化は、
私たちを困惑させるに充分だといっても
少しも誇張にはならないだろう。

つまり私たちは新しい条件の下で生きて行くための
「生活の智恵」を身につけることを
いやでも要求されるようになったのである。

こうした分岐点に立たされて、
私が考えつくような対処の仕方がはたして言葉の正しい意味で
「智恵」の部類に入るものかどうかは、
読者諸賢の判断にお任せするよりほかないだろう。

最後に、この本の執筆に際してお世話になった
プレジデント社社長本多光夫氏、
編集長山本憲久氏、
またPHP出版部、松本道明氏に謝意を表したい。

一九八三年九月吉日

邱永漢





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2012年11月22日(木)

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