死に方・辞めかた・別れ方  邱永漢

去り際の美学

第7回
家庭教育の目的は

「性善説」が正しいのか、
それとも「性悪説」が正しいのか、
俄かに結論は出ないが、どちらにしても家庭教育というものは、
子供のうちに社会生活を営んで行く上で
障害になるような態度を矯正することからはじめなければならぬ。

自分を育ててくれた親を敬い、
自分に知識をあたえてくれた教師に尊敬の念を抱くように、
子供をしつけることは親の義務なのである。

それをないがしろにして、金儲けに夢中になったり、
ゴルフやバーにばかり行っていたのでは、
育つ子供も育たなくなる。

いくら日本が物質的に豊かになったからと言っても、
子供の欲しがるオートバイやスポーツカーを買いあたえて、
それで口ふさぎをしていたのでは
いい子供が育っわけがないのである。

うっかりそういう家庭に育った娘を嫁にもらって、
何かというと、すぐ自分の育った家を例に出されて、
「この家はケチだ」、「この家は旧式だ」
とケチをつけられるよりは、質素な生活ではあっても、
人間として、また嫁として、
こういう具合にやるのが人の道にかなっていると教えられて育ち、
うまく私たちの家風に融け込んで行ける
人柄のよい娘を嫁にもらった方が賢明なことは明らかである。

だから、息子の願いはすんなりと
私たちに受け容れられたけれども、
さて婚約はどうするか、結婚式はどこで、いつ、
どういう具合にやるか、などという具体的なことになると、
息子の一存でというわけには行かない。

親の体面ということも、むろん、ないではないが、
そこには子供を一人前にしようと努力してきた親たちの
「死に方」が潜在意識的に、こもっているからである。





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2012年11月28日(水)

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