死に方・辞めかた・別れ方  邱永漢

去り際の美学

第10回
「式」はなんのためにあるのか

新聞によると、結婚式の費用は、
ホテルでやる高級な披露宴は別として、
何でも平均して一人当り一万円の費用がかかり、
一組の新婚カップルで平均して約百万円、
新婚旅行の経費も入れると
大体、百五十万円くらいかかっているそうである。

百五十万円を、若いカップルが自分で払うとなれば、
必ずしも少ない金ではないが、
出席したお客からお祝いをもらうことでもあり、
自分たちで負担できない金額というわけでもない。

しかし、実際には、百五十万円のお祝い金をもらえる人は、
自分が払える金額に更にその分を上乗せした
スケールの結婚式をやろうとする。

経済的に余裕のある親がうしろにひかえていると、
親のつきあいの相手とか、
商売友達も招ばなければならなくなるから、
人数は多くなり、金はいよいよかかるようになる。

しまいには、結婚式とは、本人たちのものではなくなって、
親たちのものになる。

「それでは意味がない」という批判の声もある。
しかし、もともと結婚式は、
「家」と「家」との間で行われるものであり、
その証拠にどの結婚式場に行っても、
××家と××家の結婚式場とは書いてあっても、
花婿、花嫁の個人の名前はどこにも書かれていないのである。

結婚式をやったことのある人なら、
誰でも思いあたるフシがあることだが、
結婚式ほどわずらわしいものはない。

私などは、結婚披露宴のあとで、
女房の兄弟姉妹と大喧嘩になり、
初夜と言われる晩に、花嫁を連れ去られて
一人で夜明けを待つという目にあわされてしまった。

原因は、といえば、花嫁について来て
身のまわりの世話をする
大衿(タイカム)という附き添い婆さんを
私が断ったためである。

これは広東人の風習で、
世なれない花嫁が挨拶に来た親戚たちに
お茶やお菓子を出す時そばにいて、代わりにお愛想を言う。
その度にチップをせしめる商売だが、
その晩ついてきた婆さんが如何にも強欲そうだったので、
宴会のあと自動車に乗り込むところで、
「この人は来ないでください」と私が断った。

そうしたら、女房のおふくろが、
「私たちの好意をふみにじる」と言ってわめき、
向うの兄弟たちが母親の肩をもって私と口論になり、
とうとう花嫁をそのまま
自分たちの車に乗せて連れ去ってしまったのである。

そんな異常な体験をしたこともあるので、
結婚式を億劫がる気持は、私の場合、人一倍ある。
けれども、あとになって考えると、
結婚式は何のためにあるかといえば、
実はわずらわしい思いを
体験するためにあるとしか思えないのである。

結婚する当人は自分たちが結婚するために
結婚式をやるのだと思いがちだが、
二人が一緒になるためなら何も結婚式をやる必要はない。

二人で役場に婚姻届を出しに行き、
あとは二人で一緒に起居を共にすればよい。
それをわざわざ結婚式をやるのは、
結婚したことを親戚とか友達とか、
要するに二人にとってしがらみになる
人間関係のなかにおくことなのである。

しがらみにわけ入って、
わずらわしくないわけがないのであって、
従ってどんな気軽な結婚披露でも、
その人なりに「わずらわしさ一杯」の筈である。
そして、結婚式はそういうわずらわしさを体験して
はじめて価値がある。
「こんなにわずらわしい思いは一ペんだけでたくさんだ」
という気持になれば、もう二度と、
結婚式をやろうという気は起さないだろうからである。

だから、「結婚式は一生に一度」が理想である。
誰でも結婚する時はそうであってほしいと願っている。
それがなかなかそれですまない場合でも、
再婚式はやらないのがしきたりである。

とにかく結婚式とは、
「この通り皆さまに公認していただいた」のだから、
「あれッ。もう別れたのですか」と笑われないよう、
自分たちを戒めるためにやるものだーと私は解釈している。





←前回記事へ

2012年12月1日(土)

次回記事へ→
中国株 起業 投資情報コラム「ハイハイQさんQさんデス」

ホーム
最新記事へ