死に方・辞めかた・別れ方  邱永漢

去り際の美学

第45回
「七十七歳」が意味するもの

予想を立てながら、仕事をすすめて行かなければならない人は、
皆、何らかの形で、予感を働かせながら生きている。
私も、景気の将来とか、国際間の動きの変化とか、
相場の変動とか、人々の好みとか物の考え方の移り変わりには、
強い関心を持っているから、「きっとこうなるだろう」とか、
「どうもこうなるようだ」とか、絶えず予感を働かせている。

しかし、この人のように自分の死期に予感の焦点を合わせたことは
一度もなかったから、思わず笑い出してしまったのである。

しかし、一緒になって笑ったからと言って、
バカにしたわけではない。
むしろ、そういう発想の予感の働かせ方も悪くはないなあと
感心したのである。

先ず第一に、七十七歳というのが遠慮深くていい。
男の平均寿命は七十四歳になったから、
七十七歳はそれよりホンの少ししか上でない。
上ではあるけれど、それほど欲張ってはいない。
世の成功者の中には、
本気で自分は百歳まで生きるつもりでいる人がたくさんいる。

動物はオトナになるまでの五倍は生きられるそうだから、
百二十五歳まで生きるんだと広言している人もある。
「百里を行く者は九十九里を半ばとせよ」
という諺もあるくらいだから、そのくらいの気構えがなければ、
とても七、八十歳まで生き延びられないだろう。

しかし、平均寿命から上は字余りの俳旬みたいなもので、
大して邪魔にはならないが、大して意味があることでもない。
私が見ると、百歳まで生きたいと願っている人は
欲張りではあっても、必ずしも賢い人ではない。
その点だけでも、七十七歳で死ぬという予感は、
好感の持てる予感だと思う。

第二に、本気になって自分の死期を予感しているなら
なおさらのことであるが、
本気でない場合でも、死期を考えることは、
「持ち時間」の計算を強いられることになるから、
自分なりの計画的な人生を送ることになる。

私たちの人生はお金と時間の二つのうち
どれが一つ欠けても成り立たなくなる。
時間は誰でも持っているが、
お金は持っている人と持っていない人があるから、
お金持ちと貧乏人の区別が生ずる。
しかし、人の一生を考えると、
年と共に「持ち時間」がなくなって行くから、
「時間持ち」と「時間貧乏」の区別があってもよいのではないか。

若い時は、大抵、時間はたっぷり持っているが、
お金はあまり持っていない。
人はふんだんに持っているものを大事にせず、
持たないものを尊重するから、
若い時は、時間を無駄に費い、お金のことばかり頭にこびりつく。

年をとったら、お金ができる代わりに、
残り時間が少なくなるから、お金はどうでもよくなって、
時間を大切にするパターンに変わってくる。
少なくともそう考えてよい客観的な理由がある。

しかし、実際には、お金のないまま年をとり、
持ち時間も少なくなってしまっている人が結構多いから、
年をとってお金にも時間にも執着するケースをたくさん見かける。

なかには、お金があるのに、もっとお金が欲しくなるだけでなく、
少なくなった持ち時間まで、もっと拡張して、
百歳まで生きたいと考える欲張りジイサンも出てくる。
そういう人に比べれば、自分の死期を「予感」しながら、
生きている人の方がずっと慎ましく、奥床しいといえるであろう。






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2012年1月21日(月)

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