死に方・辞めかた・別れ方  邱永漢

去り際の美学

第46回
年をとれば孤独になる

しかし、そんなに長生きしたいと思っていない人でも、
また身体が弱くて自分はあまり長生きできないだろう
と思っている人でも、少なくとも元気な間は自分がいつ死ぬか、
計算に入れて生活をしている人は少ない。
「生きているのは苦しい」とか、「早く死にたい」と
口では言いながら、実際には生きられるだけ生きようとする。

それが生命力というものだから、別段不思議なことではないが、
でも、自分はいくつくらいで死ぬのが理想的なのか、
一ペんそれを考えてみるのも悪くないのではないか。

「老人の日」というのがあって、その日になると、
新聞やテレビが老人のことを思い出させてくれる。

意地の悪い解釈をすれば、
ふだんは年寄りのことを忘れているということにもなるが、
それはともかくとして、老人の日になると、
百歳以上になった人たちの元気な姿が映し出され、
どうしたら長生きができるか、その秘訣みたいなものが語られる。

死ぬまで健康で、頭がボケていないことは大切なことであるが、
ああいう老残の姿をまざまざと見せつけられると、
あんまり長生きはするものではないという気持になってくる。

どうしてかというと、
年をとるということはもともと孤独になることであるのに、
あんまり長く生きていると、友達の葬式にばかり参列させられて、
いざ自分の葬式の時には、皆、死に絶えて葬式に来てくれる友達が
一人もいなくなってしまうからである。

女の人の百歳は子供が七十歳から八十歳、
孫が五十歳から六十歳ということだから、うっかりすると、
孫にさえ先立たれて淋しい老後を送ることになる。
肉親の意識は、せいぜい二親等くらいまでだから、
曾孫では精神的なつながりは殆んどなくなってしまう。
そんな年まで生きて、都知事や市長から表彰状をもらっても
あまり意味がないと思う。

もっとも、そういう感想を持つのは、
自分がまだ、そう年になっていないからだ、という反論もある。
「死にたい、死にたい」と言うのは、
死に直面していない人の考えることで、実際に死に直面した人は、
逆に死から逃れることを考えるそうである。

そう言えば、年寄りほど健康を自慢にし、
もっと長生きしたいとしきりに口にする。
ついこの間も、ロータリー・クラブに記念講演に行ったところ、
その席上で、八十何歳でとても元気溌溂としたお爺さんが
壇上に立って、健康自慢をするのにぶつかった。

ご本人は、
「この通りピチピチしていて、ちっとも年を感じません」
といきおいよく両手をあげて見せたが、
そういうところがやっぱり年寄りなんだなあ、
と改めて目を見張った。
なぜならば、若い人で健康を売り物とする人など
一人もいないからである。
何が恐ろしいといって、
身体はどうもないのに頭が老化して、
時代とうまくかみあわなくなるくらい
恐ろしいことはないのである。





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2012年1月22日(火)

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