死に方・辞めかた・別れ方  邱永漢

去り際の美学

第48回
先行指標はあっても

はたして、
娘や息子が親の思う通りに育ってきたかどうかはわからないが、
仮にそうだとしても、やはり時代の趨勢にはかなわない。
だから親としても子供の親孝行に期待するわけには行かない。
今の親で生きている間、経済的、もしくは身のまわりのことで、
子供の世話になろうなどと考える親などいないのではあるまいか。

現に、私も女房も、二人とも元気な間は、
先ず子供たちと同居することはないだろうし、
たとえ一人になって、
子供たちに同居してもらうことがあるとしても、
経済的に面倒をかけるようなことは、
よほどの大異変でもない限りは、先ずないであろう。

何のために一所懸命、働いてきたかというと、
年をとっても親としての権威を失いたくないからであり、
その裏付けとなるものは経済力にほかならない。
幸い、その点はほぼ計画通りにやって来られたので、
あとは、持ち時間の少なくなった者が
どうして残り少ない時間を有効に使うか
というところにしぼられてくる。

私はことし五十九歳だから、まだ十五年はある勘定になるが、
女房に言わせると「十五年あると思うのは間違いで、
最後の十年は使い物にならない、駄目な十年だ」そうである。

七十歳すぎても、元気で活躍している人もたくさんいるのだから、
そんなことはなかろうと思いたいが、
外から見るのと、内から見るのとでは
かなりの違いがあるかもしれない。

何しろ人間は一度しか年をとらず、
しかもその年になるまで、その年齢を体験することがないから、
「転ばぬ先の杖」というわけには行かない。

ただうちの女房の場合は、五つ年上の姉さん、四つ年上の姉さん、
三つ年上の兄さんと、それぞれ先行指標があって、
あと五年たったら顔のシワがどの程度になる、
歯の具合がどうなる、という大体の見当がつく。

急に白髪が出たり、急に食べる量が減ったり、
また急に人づきあいが悪くなったりするのを見ていると、
あと何年たったらどうなるか、
大体の予想がついてしまうのである。

こうした先行指標を見ていると、
年をとったら、どういう変化が起るか、大凡の見当はつくが、
若い人が皆、同じ生き方をしていないように、
すべての老人が皆、同じ年のとり方をしているわけではない。

頭がハゲたり、白髪になったりするのは、
共通の老化現象であるが、
それだってそうなる人となかなかそうならない人がある。
年をとると、退嬰的になったり、くどくなったり、
涙腺がゆるんですぐ泣いたりする、
また、すぐ孫自慢をする、というのは一般的現象だが、
人によっては、七十歳、八十歳になっても、
事業欲の衰えない人もあれば、
一度言ったことを同じ席で二度と繰り返さない人もある。

そういう人を見ると、
五十歳で早くも老化現象が表面化する人もおれば、
七十歳になっても少しも年を感じさせない人もある。

そうした違いは、「生まれつき」であるよりは、
「心がけ」次第であり、身の処し方の問題であるという気がする。
なぜならば、いつまでも若さを失わない人には、
共通の生き方があるように思われるからである。





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2012年1月24日(木)

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