死に方・辞めかた・別れ方  邱永漢

去り際の美学

第68回
気になる自分の葬式

年をとってくると、社会的地位から言っても、
若い者の面倒を見るチャンスが多くなる。
私など文筆上の弟子は大していないが、
仕事上の弟子をつくることには割合に情熱を持っている。

若い人が好きということもあるし、
まだまだ事業欲があって、
それを実現するために手足になってくれる
若い人が必要なこともある。

しかし、その半面、企業家として大成できる人は、
確率的に見ても百人に一人いるかどうかだから、
人づくりは苦労の多い割には報いられることが少ない。

第一に、若い人のためにお金を出してあげたり、
仕事をつくってあげても、なかなかうまく行かない。
第二に、うまく行くようになってお金ができても、
お金にはもうあまり用がない。
生活に必要な一定量を越えると、
効用が急速に低減してお金は役に立たなくなるものである。

じゃあ、一体何のために苦労するのですかと聞かれると、
面白いからやっているのだ、とでも答えるよりほかない。

私はいつも冗談に、
「葬式の時に来てくれる人を増やす仕事をやっているのですよ」
と言う。

さすがに突飛に聞こえると見えて、
きまってわあっと笑い声が湧く。
冗談はともかくとして、
では自分の葬式の時に、
「この人は果たして来てくれる人だろうか」
と目をとじて考えてみると、案外、心もとない。

十年たっても、二十年たっても友情に変わりなく、
仲間として定着してしまった人は、
むろん間違いなく来るだろう。

しかし、商売の世界で結びついている人は
どうなるかわからないし、
恋愛や痴情で結びついた人はその激しさの故に、
醒めてみると、赤の他人になっている。

縁あって一緒になったのだから、
せめて葬式の時くらいは
「恨みを忘れて来てちょうだい」と冗談を言うと、
「その時はどんなことがあっても必ず伺います」
と真面目な顔をして答えてくれる人もある。

しかし、死んでしまったあとだから
本当に来たかどうか識別できないし、
葬式に列席した人に確認してもらって、
あとで報告してもらうこともできない。
生きている間だって、人の心はあてにならないのに、
まして死んだあとのことまで、
いちいち気にしない方が結局は賢いということになりそうである。

それに、もともと来る気のない人に
無理矢理招集をかけたところで、
何の意味があるか、ということにもなるから、
人間の葬式のスケールは、
やっぱり自ら評価の定まるところに
自然に落ち着くことになってしまう。





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2012年2月13日(水)

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