死に方・辞めかた・別れ方  邱永漢

去り際の美学

第70回
納得できる葬式をしたい

私の家で子供たちと食卓を囲んだ時に、
一番多い話題は、「親が死ぬ話」と「倒産する話」である。

ある時、インタービューに来たジャーナリストにその話をしたら
「ずいぶん暗い話題ですね」と、びっくりされた。
「暗い話題」どころか、
我が家では大へんメリハリのある
「楽しい話題」だと私は思っている。

「倒産する話」は避けて通れないことではないが、
倒産したときにはどういうことが起るか、
どれだけの覚悟が必要かは、
ふだんから心がけておかなければならないことだし、
もしそうなりたくなければ、
それだけの対策をやっておかなければならない。

親にとって、それは自戒的な話題だが、
責任のない子供たちに、
一方的に被害だけ受けさせるのはふびんでも、
ふだんからそれくらいの
心準備をさせておくのは悪いことではないと思う。

それに対して「親の死ぬ話」は、
早い遅いの違いがあるだけで、
確実に起ることである。

子供がすっかり成長して
一人立ちできるようになってから死ねばよいが、
人生には不慮の災難があるから、「遺児三人」
と新聞に書かれるということもありえないことではない。

そういう場合を想定して、
「パパには借金がいっぱいあるから、
もしパパが死んだら、
この家もみんな銀行のものになってしまうよ」
「じゃ、僕たちはどこに住むの?」
「家なき児というのがあるでしょう。
ああいう具合になるのさ」
小学生の頃に、そういう話をすると、
子供たちは恐れおののいて、
「パパ、死ぬ時は、借金を返してから死んでね」
と言って、私を大笑いさせたものである。

長ずるに及んで、いつか死ぬということと
借金がいっぱいあることはあまり心配しなくなったが、
次男の如きは同級生に親の倒産したのが出て、
どういう目にあうか、マザマザと見せつけられたせいもあって、
ニューヨーク留学中、
「仕事が思わしくなくて、
そんなに長くは送金できないかもしれない」
という私の手紙に接すると、
あわてて国際電話をかけてきて、本当かどうか、
兄弟たちに確かめていた。

しかし、世間のことがわかるようになるにつれて、
父親の倒産話は、「狼が出たぞ!」と嘘をつく
少年みたいなもので、実はオドカシにすぎないのだと
タカをくくるようになってきた。

但し、オドカされている間に、
世の中の仕組みや経済に対する知識が自然と備わったから、
他の家の子供たちに比べれば、
経済観念もあるし、企業感覚も身についている。

今も、「親の死ぬ話」と「倒産する話」は
相変わらず我が家の話題であり、
その意味ではたいして変わり映えがしないことも事実であるが、
日本硝子が倒産しても、
秋木工業が倒産しても、食卓の話題には事欠かない。

現に、台湾では私の周辺で倒産が相次ぎ、
私から証券会社を買った人まで夜逃げをして
ロサンゼルスに高飛びしてしまった。
高度成長期に財をなした人たちも、
退くことを知らなかった連中は次々と倒産している。

あれを見ると、「倒産する話」を
しょっちゅう話題にしてきた私の方が
倒産に対するブレーキがよく効き、
今までのところひどい目にあわないですんでいる。

「いつも最悪の事態を想定しながら、舵をとれば、
人生は最悪の事態を回避できる」というのが私の信条なのである。

そうは言っても、人は必ず老いるし、老いれば、
いつかは死期がやってくる。
死期が近づくと、死んだ後はどうなるのか、
に興味を持つようになるそうだが、
私はそんなことには何の関心もない。

私がそういうことを書くと、
世の中にはお節介な人が結構たくさんいて、
「神を信じないとは一展れな人だ」
「あなたのような人には救いがない」と言って、
自分たちの神様についてクドクドと説いた
ダイレクト・メールを送り届けてくる。

人の気持も察せずに、自分の神様だけを人に押しつけるなんて、
なんとやさしさに欠けた人たちだろうと、
あきれもするが、そういう人たちにいちいち反論するよりも、
私にとってはさしあたり心残りのないように生きることが、
もっと大切である。

また死ぬ時も「これで死ぬのだ」と
自分が納得できる死に方をしたいし、
葬式についても、そもそも式という以上、
形式的なものであることは百も承知だが、
せめて自分が納得のできる葬式にしたいと思うのである。





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2012年2月15日(金)

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