埋立てがほぼ完成すると、宇都宮駅に東口ができることになり、私の買った一三〇〇坪ばかりの土地は駅から真直ぐの一八メートル道路に面するようになったので、わずか八五〇万円で買った田圃がちょうど満五年で一億七〇〇〇万円で売れ、私は過去に投じた金をすべて回収できたばかりでなく、多少のお釣りもできた。最近その辺の土地は坪一〇〇万円になっているそうだから、今まで持っていたら一財産ができただろうが、私は自分が投じた金が少しばかりの子を連れて戻ってきてくれたことだけで充分、満足だった。
人は、私は運がよかったというが、それは禍を転じて福にすることができたということであって、決して一本調子でお金が儲かったわけではない。もし土地を買ってお金儲けするだけなら、一五〇〇万円をわざわざ鬼怒川までもって行かなくとも、東京近郊で土地を買うだけで、おそらく同じ効果をあげていたであろう。
しかし、もし鬼怒川に投げ込んだお金を必死になって取り戻そうという気持がなかったら、はたして銀行に行って金を借りてきて土地を買うようなことまでしたかどうか。もし一五〇〇万円を十年間、銀行に預けていたとしたら、やっと三〇〇〇万円にしかなっていなかったであろうし、ケネディ・ショックやニクソン・ショックのたびに、目を白黒させていたかもしれないのである。
だから、私は自分の経験から推して、人は何もやらないでただ引っ込み思案になっていたのでは、何の進歩もないと思う。多少の失敗があっても、また身心を消耗するようなことがあっても、体験したことのないことに挑戦するのはよいことだと思う。
しかし自分でいろんな商売をやってみて、手形で商売をすることにはうんざりした。手形を切るときには誰でも、これくらいの金額は、入ってくる金で充分、賄うことができると思っている。かりに何かの事故があって、入るべき金が入らなくなっても、そのくらいの金額なら何とか埋め合わせがきくだろう、とたかをくくっている。
しかし、いったん手形を切る習慣がつくと、取引きがふえるにしたがって、手形は天文学的数字でふくれあがって行く。また手形には、支払いを先に繰りのべるという魔術のようなところがあるので、金に困ったときは、つい安易に手形を切るようになる。したがって、気がついたときには手形の金額が個人の支払い能力をはるかに上回ってしまって、もはや手がつけられない状態になっていることが多いのである。
自分でそういう失敗をしたので、以後、私は同じ商売をやるにしても、手形を切らないとやって行けない商売は敬遠するようになった。
だから、まったく手形を切らなくなったというわけではないが、かりに手形を切るとしても、万一、手形がおちないような状態におちいったとき、手形の書換えができるという条件を示されたときだけ手形を切ることにしたのである。
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