要するに、人間の才能には案外、限界があり、勝手知った業界に安住したがる傾向が強いので、自分の生きる世界に塀がしてあるわけでもないのに、行動半径はいつの間にかきまってしまっているというのが意外に多い。「お釈迦さまの掌の中だよ」と私はよくいうが、私自身にしても、違う商売を次から次へと手がけているように見えても、台湾へ行っても、アメリカヘ行っても、結局はほぼ同じパターンの仕事しかやれないでいる。一つにはその人に向いた成功のパターンがあると、どうしてもそのパターンに頼りたくなるからであろうが、加山雄三の歌はどれもこれも加山調だし、石原裕次郎の歌はどれもこれも裕次郎調だといった結果に終わってしまう。
この意味では、成功した人も失敗した人も、「お釈迦さまの掌の中だよ」ということになるが、しかし、一つの業界で成功した人が同じパターンで事業を拡大して行くことは容易であっても、失敗した人がまた同じ業界で成功のキッカケをつかむことはそれほどやさしくはない。
なぜならば、どうしても同じパターンでまた臨むことになり、すでに不適格であると証明されたことをもう一度、証明する結果になるのが関の山だからである。
だから、中古車で失敗した人がもう一度、中古車で再起をはかっても成功する可能性はあまりない。同じ業界にいる限り、失敗した人はどこかで細々と飯を食わせてもらうことになり、再び先陣を切る華々しい存在に返り咲くことはないといってよいのである。
そういった意味では、まだ依然として「野心を失わないでいる人」は、自分が失敗した業界に未練を持たないほうがよい。一度失敗した業界で、「心を入れかえて」「まったく違った視点から」「新しい切り口を見せる」ことはまず不可能である。
ところが、今までにやったことのない商売だと、新入りなだけに、「こんな商売があったのか」という驚きもあるし、同時に、「どうしてこんなやり方をしているのだろうか」という疑問も起こってくる。そうしたシロウトの素朴な疑問がスタートになって新機軸を出し、新しい経営方法で成功した例は枚挙にいとまがない。
だから、私は、再起を願う人の年齢や気力ともかかわりがあるが、どうせやるなら、「昔とった杵柄」でなく、新しい分野で可能性に挑戦することをおすすめしたい。
←前ページへ 次ページへ→

目次へ 中国株 起業 投資情報コラム「ハイハイQさんQさんデス」
ホーム
最新記事へ