15. 新しい商売を選ぶコツ
お釈迦さまの掌の中
『西遊記』のなかに、孫悟空が釈迦牟尼と口論をして、「俺は一跳び一〇万八〇〇〇里も遠くへ行けるんだぞ」と啖呵をきる場面がある。「それなら跳んで見せておくれ」と釈迦にいわれて、悟空が思いきり遠くまでとんで行くと、地の果てのようなところに五本柱がそそり立っていた。遠くまできた証拠に、その一本に「孫悟空ここに在り」と大書して、またとってかえして釈迦に自慢すると、釈迦がてのひらを開いて、「お前はずいぶん遠くまで行った積りでも、ほら、私の手の中をとんだだけじゃないか」といって見せるところがある。
原書の『西遊記』は約四百年も前に書かれたものであり、ストーリーの展開もスローモーで退屈きわまりないので、『邱永漢・西遊記』を書くときに、私はいたずら心を起こして、孫悟空が石柱に大書したあと、急に尿意を催して柱に小便をする情景をつけ足した。釈迦が怒って、立小便をするのは、「犬と日本人と、そしてお前くらいなものだ」と雫をふりおとしながら文句をいう。私のその描写を読んで故高見順氏が、「邱永漢は礼節を知らない無礼なやつだ」と真顔になってどこかで怒っていたのを読んだことがある。冗談を悪意ととられては返答に窮してしまうが、議会の派閥の大将が議会の庭で立小便をしている光景が雑誌に掲載されたこともある。ああいうのは何と解説をしたらいいのであろうか。生理現象だからたいしたことじゃないともいえるし、習慣の違いだが慎みに欠けるという批判もあるのではないだろうか。
それはまあ、余談だが、孫悟空と釈迦のやりとりは、人間の生き方を象徴するものとしてとても興味深い。「東京が駄目なら大阪があるさ」と歌のセリフにも出てくるように、一つのところで食い詰めたら、どこか別のところへ引越せばよいようなものである。今ならアメリカかブラジルにでも行けばよい。
現に国内で犯罪をおかしたものは高飛びするときに、フィリピンとかタイとかいったところを選ぶ。しかし、何カ月か何年かたって持金を使いはたすと、やっぱり縄につくのを覚悟で舞い戻ってくる。外国の生活をしたことのない者が何の準備もなく外国へ逃げて行っても、言葉もわからないし、友達もいないし、現地の風俗習慣にもなれていないから、木賃ホテルの部屋に何カ月もとじこもったような生活をしている。これでは牢屋に入れられているようなもので、精神的には牢屋にいるよりもっと苦しいから、心理的にまいってしまって、元の古巣へ戻って来る気になってしまうのである。
犯罪者でさえそういう心理におちいるのだから、事業に失敗した者が「知人に顔をあわせるのがつらい」といった程度の理由で外国へ飛び出して行っても、なかなか定着ができない。
また同じ業種はもうコリゴリだから、まったく別の商売に移りたいと決心して、今までと違う世界に入って行こうとするが、これも異国に移住するのと同じように、なかなか容易なことではない。経営コンサルタントをしていた人が結局はまた経営コンサルタントの業界に舞い戻ってきたように、中古車の販売をしていた人も、あちこち遍歴したあとに、気がついてみたらやはり中古車の業界の周辺で棲息をするようになるし、出版屋はやっぱりまた出版屋になる。
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