第63回
社会勉強なら外国がおすすめ

私は台湾の台南市に生まれ、
13才の時に親元を離れて
台北市の七年制高校に学び、
大学は東大だったので、
台湾や日本は私にとって外国ではありません。
台湾と日本は、言葉の上でも
風俗習慣でもかなり違いますが、
子供の時から双方の生活に馴染んできたので、
それぞれの違いがわかり、
異和感は持っていません。

その私が24才の時に、終戦後、
台湾に入ってきた国民政府の腐敗政治に
愛想をつかし、叛旗をひるがえして
あわや逮捕される寸前に飛行機にのって
香港まで高飛びをしました。

皆さんは香港も台湾も大陸も
同じ中国と思っているかも知れませんが、
当時の香港は英国領で、
台北や北京の主権が及ばず、
言葉だって広東語ですから、
日本語と台湾語(福建語)と
片言の英語しか喋れない私にとっては
文字通りの外国でした。

お金も少ししか持っていなかったし、
友達もいなかったし、東大なんていっても
誰も知らないから学歴も就職の役には立ちません。
何よりも困ったのは政治亡命ですから、
パスポートもなく、もう二度と故郷へ帰ることが
できなかったことでした。
帰れば、政治犯は死刑にされなかったとしても、
緑島という孤島に島流しになって
長期監禁された時代でした。

そんな生命知らずなことができたのも
青春の血が燃えていたからです。
そして、知らない外国にいきなりとび出したのも、
外国なら一命をとりとめ、
知らない運命が私を待っていると思ったからです。
同じように政府に逮捕令を出されて
香港に亡命していた
金持ちの同郷人の家にころがり込み、
1年間ほど居候をしていましたが、
どうしていいかわからず心配のあまり
朝まで一睡もしなかったことが何回もあります。

それでも、どうにかなるものですね。
どん底までおちても、死なない限り
そこから浮かび上がってくることができるんです。
一流会社に就職して
郵便物の発送の手伝いをしたり、
電話のかけ方を教わっているよりは
人生の勉強になりますよ。





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