第205回
部下ではなくて私の学生です

私は会社を何十社か経営していますが、
本職は物書き(著述業)ですから、
とても名社長というわけには行きません。
物書きは、企画から製造から販売まで
みな1人でやる商売ですから、
長い間、仕事の部下がおりませんでした。
人をやとったのは、ビルを建てたり、
コンサルタント業務をやるようになってからですが、
その人たちにやってもらうことと言えば、
家賃をもらう仕事とか、経理や決算をする仕事とか、
私のスケジュールを組むような仕事くらいのことでした。
そのために一人前の経営者に育った人間を
養成するチャンスにはほとんど恵まれませんでした。

私が事業と呼べるような仕事にのめりこんだのは
いまから28年前、国連から脱退して亡国の危機に曝された
生まれ故郷の台湾に帰ってからのことです。
かつて私を政治犯としてお尋ね者にした台湾の国民政府が
「邱先生のような日本でも著名な方が台湾に帰ってきて
投資をしているところを皆がわかるような形でやって下さい」
と頼むので、私は台北市の中山北路と南京東、
西路の交叉点の、東京でいえば、
銀座4丁目の交叉点にあたるところでビルを建てたり、
台南に工業団地をつくったり、
また数々の日本との合弁企業を興したりしました。

はじめの頃、そういう企業の経営に
既成の人材を登用しましたが、
いずれも長続きしませんでした。
よそから引っ張ってきた人たちは
既成観念や既成商習慣に汚染された人ばかりで
次の時代の経営にうまくかみあって行けないのです。
やむを得ずはじめた新しい人材の養成に
10年かかってしまいましたが、
いま私のそれぞれの企業で
総経理(社長)をつとめているのはほとんどが
私の秘書か運転手をつとめていた人たちばかりです。
一番腕がいいとは言えないかも知れませんが、
一番気心が知れているのと、私の教えを守ってくれるので、
使い安心というところがあります。
というのも私が自分の部下と思うより、
邱永漢学校の学生と思っているからです。


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