第388回
名プロデューサーになるのも心がけ次第

もう1人の小谷正一さんは
先生と呼ばれることさえ嫌がった人ですから、
広く名を知られていませんが、
毎日新聞の社会部長を勤めたことがあり、
同じ毎日出身の井上靖さんの芥川賞受賞作「闘牛」や
「黒い蝶」のモデルになった人です。

日本ではじめて民放のスポンサー料を決めた人でもあるし、
またセ・リーグの名付け親でもあります。
アイ・ジョージや坂本スミ子を
世に送り出した人でもあるし、
竹村健一や阿久悠らが師と仰ぐ人でもあります。
また大阪万博の電気館や童話館の
プロデュースをしたことでも
プロの間の語り草になっています。

それだけ数々の新しい企画にたずさわった人ですが、
プロデューサーの最も理想とすべき模範は
宮島の鳥居をつくった人だと常々言っていました。
日本三景の1つに数えられる宮島の鳥居は
海の中にあるだけであれだけ有名になり、
多くの観光客を呼び、且ついまでも、
しゃもじを売るお土産物屋さんたちを食べさせています。
もしあれが陸にあったら
恐らく誰もふり向かなかったでしょう。
それを海の中につくったというアイデア1つで
名所をつくり出したのです。
恐らくそういうアイデアを実現させるにあたっては
藩の中に反対意見もたくさんあったに違いありません。
そういう反対を説き伏せて、
プロジェクトを完成させたにも拘わらず、
その人の名さえ残していません。
「これこそプロデューサーの冥利につきる形です」
と小谷さんは常々おっしゃっていました。

私は檀一雄さんの紹介で知り合いになったのですが、
なくなられるまでずっとおつきあいさせていただきました。
年こそ追いつけませんでしたが、
自分もその年齢になって見ると、
頭を柔軟な状態に維持することが
如何に大切なことか改めて痛感します。
30才で早くも頭が
コンクリートになってしまう人もあれば、
80才になってもまだつぶしのきく人もあります。
これは生まれつきというより、
訓練と心がけの問題ですね。


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2001年4月2日(月)

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