第429回
セーフ・ガードまでの長い道のり

人手のかかる労働集約的な仕事は
コストの安い海外に工場を移すに限ります。
そう考えて第一次石油ショックの少し前に、
日本のパーツ・メーカーに声をかけて
台湾に移ってもらったことがあります。

石油の値段が一挙に10倍もハネ上がる石油ショックは
工業国日本にとっては
蒙古襲来にも匹敵する衝撃的な大事件でした。
1年でサラリーを35%も引き上げたくらいですから、
企業という企業が赤字に見舞われました。
この危機を切り抜けるために、
日本の産業界は省エネと省力に全力を集中しました。
ガソリンや電力が少なくてすむ
自動車のエンジンや家電製品をつくって
アメリカをはじめ世界市場を制覇するようになったのも
「禍を転じて福となす」という日本人の頑張りが
もたらしたものです。

省力の機械とか、設計の変更によって
コストの安い生産が可能になると、
100人かかった生産工程が10人ですむようになったので、
一度、海外に乗り出した日本の企業が
また国内に逆戻りしてしまいました。
どうしても機械化のできない労働集約的な業種だけが
台湾と韓国に残り、
それが台湾と韓国の賃金上昇で成り立たなくなって、
大陸とか東南アジアに再移動しました。
マブチ・モーターズとか、ミツミ電機とか、
パーツ・メーカーだけが早くから海外に定着し、
日本の完成品メーカーの進出が遅れたのは
こうした日本企業のきびしい抵抗が続いたからです。

しかし、いくら抵抗しても
時の流れを食い止めることはできません。
特に早くから斜陽化の叫ばれていた繊維加工とか、
運動用品のような雑貨とか、
金属加工に多くの人手を必要とする業界は
パーツ・メーカーと同じ道を辿りました。
それが新しい着想によって実を結んだのが
ユニクロとかタオル業界ですから、
早晩セーフ・ガードの問題が起るだろうとは
予想していましたが、
まさか葱、椎茸、畳表が先になるとは
思ってもいませんでした。


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2001年5月13日(日)

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