中国株、海外起業、海外投資、グルメ、ファッション、邱永漢の読めば読むほどトクするコラム

第2376回
辛じて日本語学校だけが残ったのです

そういう植民地の環境に育ちましたので、
日本の植民地政策には批判的でしたが、
日本の敗戦によって、
台湾の支配者が蒋介石の国民政府に代わると、
もっと大へんなことになりました。
共産党との内戦に破れて台湾に逃げ込んだ政府ですから、
少しでも反政府的な言動があると、
すぐに共産党の帽子を冠せて銃殺にしたり、
島流しにして牢につなぎます。
それに反発して私は国連に「台湾に国民投票を」
という請願書を出したために、
捕まると銃殺にされる身になりました。
捕まる寸前に台湾を脱出して香港に亡命し、
香港であわや「風と共に去りぬ」のレッド・バトラーのような
生涯を送るかに見えた時代もありましたが、
結局は東京へ舞い戻って小説家になる道を選びました。
しかし、もともとが
そんなところにおさまっておられる性格ではないので、
亡国寸前まで追い込まれた国民政府から助けてくれと声がかかると、
身の危険など物ともせず、
再び生まれ故郷まで舞い戻ってしまいました。

かねがね私は「自分の故郷で仕事をするな」、
「故郷で成功する人はいない」と主張しているにも拘らず、
自らその禁を破って、
10年余りも生まれ故郷で工業団地を開発したり、
台北市のド真ん中に
銀座の三愛ビルのような建物を建てたりしました。
その時も、私の心の中にあったのは、
金づくりへの道をひた走りに走ることではなくて、
社会教育にいくらかでも力を貸すことはできないものか
ということでした。

もう25年も前のことになりますが、
当時、私は文化事業として、
先ず書局と出版社と成人教育の教室の3つをスタートさせました。
3つともいまも台湾に残っていて、
「財訊」という経済雑誌は
台湾中の企業家たちに親しまれる雑誌になりましたが、
永漢国際教室と呼ばれる成人教育の教室は
日本語学校だけが辛じて生き残って、
いまでは台北と上海だけで7千人の学生を持つ
世界一の日本語学校になっています。
でもそれは私の失敗の果てであって、成功ではありません。


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2006年9月11日(月)

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