中国株、海外起業、海外投資、グルメ、ファッション、邱永漢の読めば読むほどトクするコラム

第2416回
台湾独立のチャンスはもうないと判断した

あれから早くも6年の歳月がたってしまいました。
陳水扁の治世には見るべき業績はなく、
三通どころか、台湾の上場企業の大陸進出にも
色々と難癖をつけてストップをかけてきましたが、
お金は人間よりすばしこく動きますから、
台湾のIT関係の企業のトップたちは
先ずお金を香港に移動し、
香港から香港企業として大陸に投資をします。
技術者の移動は本人の自由ですから、
台湾企業の90%までが大陸で生産をしています。
中国大陸の貿易収支が大幅の黒字になったことについて
台湾企業は少なからぬ貢献をしているのです。

それに対して民進党は
もともと台湾の独立を最終目標として
国民政府に圧迫されながら成長して
野党から与党にのしあがった政党ですから、
大陸に対していい感情を持っていません。
なかでも私の生まれた台湾の南部の人たちは
戦後、国民政府にいじめ抜かれたせいもあって、
独立志向の強い人がたくさんいます。

そういう私も50何年前は独立運動の志士でした。
台湾に逃がれてきた蒋介石の国民政府が
自分たちの安全をはかるために、
少しでも政府に不平を鳴らすと、
すぐに「共産党」の帽子をかぶせて銃殺にしたので、
国連に投書して台湾の地位をきめるための国民投票を
請願したのです。
誰がやったか判明すると銃殺になるので、
すんでのところを香港に亡命して不如意な日々を送り、
その6年後、思いきって東京に舞い戻って小説家になり、
今日に至っています。

したがって独立運動事始めは
私と私の先輩にあたる廖文毅博士からはじまったのですが、
私が独立運動に見切りをつけたのは、いまから35年前、
アメリカが蒋介石に「二つの中国」を持ちかけたところ、
まだ大陸反攻の夢から醒めやらず
国民政府が国連を脱退した時でした。
「二つの中国」ならまだ南北朝鮮の形が考えられますが、
「一つの中国」では台湾の独立は
私の生きている間にはもうあり得ないと判断したのです。
私が亡命先から生まれ故郷に帰る気を起したのは
そうした判断をしたからでした。


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2006年10月21日(土)

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