中国株、海外起業、海外投資、グルメ、ファッション、邱永漢の読めば読むほどトクするコラム

第4099回
ボルネオの華僑の豪商位にはなれたのでは

人は人生の岐路に立った時、
思い切って自分の運命を切りひらくことができるかどうかによって
その後の人生が大きく変わります。
のちに24年ぶりに台湾に帰った時は、
小野田少尉どころではない大歓迎で台湾中から迎えられたし、
また中国経済の大発展を予想して、
住居を東京から香港に移した時、
私は「大陸の香港化」を主張して香港のジャーナリズムから
「日本在住の金儲けの神様」として盛大に歓迎されたので、
本当はそれほどでもないのに、
香港の大財閥並みの扱いを受けるようになりました。

30何年ぶりに香港に居を構えて、昔のことをふりかって見ると、
もしあの時、日本に戻って文筆家になる代わりに、
ボルネオかセレベスに行っていたらはたしてどうなったか、
またもし九龍半島の新界で
パパイアを植えていたらどうなっていたか、
あれこれ想像を逞しくして家内と語り合ったことがあります。

先ずセレベスはインドネシア領で、
台湾からの避難民では受けつけてもらえそうになかったので
(方法はいくらでもあることはのちにわかるようになりましたが)
恐らく移住先はボルネオを選んだと思います。
しかし、貝ボタンは
あッという間にプラスチックのボタンにとって代わられ、
私は失業して船を売り払って陸に上がることになったでしょう。
ボルネオで中国系の人にできることは
さしづめ中華料理屋でしょうから、
中華料理屋のオヤジくらいにはなっていたと思います。

しかし、そのままでは終わっていません。
その後、日本の経済が奇跡的な成長を遂げると、
日本の商社は世界中にとび出し、
ボルネオには材木の仕入れに来ました。
ほかの中国人と違って
私は作家がつとまるくらい巧みな日本語ができましたから、
先ず商社がやとった現地人のトップくらいには出世したでしょう。
従ってボルネオの華僑の中で
1、2を争うくらいの豪商にはなれたのではないかと思います。
私のように決断のいい人は
いつまでも船付場でうろうろしているわけがありません。


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2011年5月31日(火)

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