| 第55回青色LED中村教授のこと
 職務発明に関する事件の中では、やはり現在カリフォルニア大学サンタバーバラ校で
 教授をされている
 中村修二さんの青色LED訴訟が、その話題性において群を抜きます。
 古巣の日亜化学との争いは、
 最終的に和解金8億4000万円で決着したものの、
 第1審では発明の対価相当額が600億円と算定されました。
 また、中村修二さんの著書でも、
 技術立国日本への斬新な提言が述べられていたので、
 皆さんのご記憶に強く残っているのではないかと思います。
 私達の目から見ると、そこはもう渦中の出来事ですから、いろいろと奇抜な面が目に入りがちかもしれませんが、
 今回は、中村修二さんが米国に転出されるまでの経緯を簡単に
 (でも可能な限り要点を押さえて)追ってみることにより、
 日本の技術者の将来像にまで立ち入って
 少し考えてみたいと思います。
 中村修二さんは、最初からエリートコースを歩んでこられたわけではありません。
 むしろ、傍流傍流を我慢強く歩んでこられて、
 研究テーマも
 当時の一流処が目もくれないようなところに狙いを定められて、
 大きな成果を勝ち取られました。
 成果を出されるまでの会社時代の10何年かは、
 ずっと役員から給料ドロボー呼ばわりされるなど、
 辛い目にも遭われたようです。
 しかし、創業者への直訴によって道が一気に開けます。当時の会社規模では考えられないような額の予算をつけてもらい、
 留学までさせてもらって、研究に邁進されます。
 そして、青色発光ダイオードについての数々の成果を生み出されて、
 業界でも認められるようになりました。
 ところが、会社での面目も躍如となったころ、
 中村修二さんに第2の試練が訪れます。
 つまり、中村さんは、会社のお偉いさんに引き立てられてしまって
 思うように研究ができなくなってしまったのです。
 管理職として毎日ハンコ押しばかりやらされて、「このままでは駄目になる」と思って、
 アメリカへ行くことを決意されたそうです。
 多くのオファーがあった中から、
 現在のサンタバーバラ校を選択されたのでした。
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