元週刊ポスト編集長・関根進さんの
読んだら生きる勇気がわいてくる「健康患者学」のすすめ

第783回
ガンもボケも「生きている証し」です

闘病の手立てから見ても、
死に様(ざま)のよしあしから考えても
「ガンはボケよりマシ!」――
「死ぬのならガンの方がいい?」といった
人生の決着法についての話の続きです。
しかし、こうした考え方は、
幸運にも、いまだ健常を楽しんでいる世代の
「錯覚と迷信」に由来するのではないか? と僕は思っています。

昔、ペニシリンが発明されるまでは、
「結核」が不治の病といわれました。
歌人の正岡子規が、
石川啄木が若くして結核で命を失う――
テレビドラマ「新撰組」では、
沖田総司が血を吐いて倒れる――
どうも、不治の病というイメージからでしょうか、
ガンは、昔の「結核」と
涙と美談のイメージが一緒になってきたように思います。
もちろん、結核の闘病も大変ですが、
ガンも痴呆もいわゆる細菌病ではない――
しつこい生活習慣病=「老化病」だ――と、
とくに、この長寿時代には
誰しもがキモに命じておくべきだと思います。、

前にも、ある中年作家の人生訓エッセイを読んでいると、
人間は大自然の中で生かされているのだから、
命は大事にしよう――といった
じつに有難い教えが書かれておりました。
でも、読み進むと「死ぬのならガンがいい」という
意味合いのことがちらりと書かれていました。
もちろん、まだガンも、痴呆症状も体験していない、
幸運な人なのでしょうが、
これだけ聡明で才能に恵まれた作家でも、
ガンやボケの闘病の凄まじさは分かり難く、
「ガン=不治の病」といった迷信、そして、
「ガン死=結核死」といった幻想に
ひきづられているのだなあと僕は思いました。

ガン、ボケは、はたから考えると、
人生後半を襲う「病気」ですから、
「死に方」の選択肢と考えがちですが、
現実に、ガンに罹った人、
痴呆になってしまった人にとってはどうでしょう。
「死に方」の選択肢どころではありません。
明日をどう生きるか?
「生き方」=人生後半の生きる闘いそのものなのです。
ですから、
「ガンで死ぬのがいい」「ボケで死ぬのはいやだ」という
短絡的な「死に方ゲーム」と幻想してはなりません。
ガンとボケこそ、人生の際で突きつけられた、
「人間、いかに生きるべきか?」を考えるチャンスなのです。
この試練を「知恵と努力と家族の協力」で乗り越えた人が、
己に納得した、本当の人生を掴むことが出来るのだ――
と僕は考えています。

なんども繰り返します。
これからは二人に一人がガンになり、
三人で一人の痴呆患者を介護していかねばならない、
「長寿難病時代」です。
ガン病棟で苦悶する闘病記や
テレビ闘病記ドラマに涙したり、感動したりするだけでは、
片付かない時代を迎えているいるわけです。
ガンとボケは絵空事の「死に方」の問題ではなく、
明日はわが身の「生き方」の問題を突きつけているのです。
努力しだいでは、ガンもボケもまだまだ治癒の可能性があるのです。
決して「不治の病」と誤解したり、幻想してはなりません。
ガンとボケが、いま長寿時代の「処世哲学」を、
一人一人に問うているわけです。
ガンもボケも、まさに『生きている証し』として捉えましょう。


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2004年10月18日(月)

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