元週刊ポスト編集長・関根進さんの
読んだら生きる勇気がわいてくる「健康患者学」のすすめ

第2003回
正食の始祖・桜沢如一の「青春時代」(1)

いま僕は日本人らしい「正食」の養生法である、
マクロビオティック玄米菜食法にめぐり合い、
「美食」「飽食」「偽食」の蔓延する世の中で、
手術もせずに「ガン延命10年」を過ごさせて貰っている――、

マクロビオティックの始祖・桜沢如一さんが
亡くなったのは40年も前で、
とうぜん、暴飲暴食の世界に溺れていた頃の僕は20代で、
まったくマクロビオティックについて知りませんし、
桜沢さんにも面識がないわけですが、
人間の縁とはおかしなもの。

先日、「もしかしたら、若き日の桜沢如一さんと、
関根さんのお祖父さんは、短歌仲間で
知り合いだったかも知りませんよ」という手紙が、
和歌山県新宮市の図書館から
舞い込んできた――という話の続きです。

「マクロビオティックの創始者・桜沢如一氏について
以下のことをご存知でしょうか?
同封しました資料でも分かる通り、
新宮藩士の子で、もともとは新宮出身者なのです。
短歌にも関係があったようで、
大正期から昭和期に活躍した作家の下村悦夫(新宮出身)、
熊野歌壇の和貝夕潮(彦太郎)、中野緑雨らと出したのが
「砂丘」という短歌雑誌で
当然、明星派の和貝夕潮の短歌仲間であった
牧師作家の沖野岩三郎とも関係があったのではないかと
思っています。」
手紙の内容はこうしたものでしたが、
短歌雑誌を創刊した頃は1901年、桜沢さん18歳の頃のようです。

この手紙に名前の出てくる「沖野岩三郎」というのが、
僕の母方の祖父で、和歌山県日高川町(旧寒川村)の出身で、
数年間、新宮教会の牧師をしておりました。
ところが、1910年(明治43年)に、天下を震撼させる
社会主義者の論客・幸徳秋水を首謀とする
大逆事件が起こりました。
沖野の盟友である医師・大石誠之助ら6人が
いわば、この冤罪裁判に会い、
絞首刑や無期懲役になった事件でして、
沖野は奇跡的に嫌疑をまぬかれるのですが、
以降、この事件の不当性を訴えるべく、
事件を告発する長編小説「宿命」を
大阪朝日新聞に発表して文壇にデビューした変わり者でした。

ま、明治30年代、40年代、
材木業で繁栄した紀伊半島の新宮の町には、
欧米の進取思想に目覚めた若者が
たくさん輩出していたのでしょう。
与謝野寛を中心とする明星派歌人ネットワークの中に、
のちのマクロビオティックの始祖となった桜沢如一も、
のちに大正期の流行作家となった沖野岩三郎もいた・・・、
というのが、新宮図書館の山崎さんの推理なのです。

まさか、こんな縁で、マクロビオティック食養生法の
始祖と僕の祖先のルーツがつながるとはびっくりでした。
この縁も、たまたま、僕が祖父・沖野岩三郎の
明治・大正期の数奇な評伝を出版しようと決めて、
この5、6年、
新宮図書館にいろいろと資料を閲覧を申し込み、
また情報の交換をしている中で起こった話でした。

じつは僕がいま書いている祖父の評伝とは
「大逆事件異聞=大正霊戦記・沖野岩三郎伝」と題するもので、
この4月には発刊しますので、
また、改めて、このコラムでも
紹介させていただきますが、
ともあれ、思わぬことで、
マクロビオティックの始祖で、
世界に食哲学を説いて回った
桜沢如一さんの若き日のエネルギーの秘密、そして、
情熱家・桜沢さんの人となりがわかってきたわけですが、
あまり知られていない歌人・桜沢如一の
横顔について、次回から少し紹介したいと思います。


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2008年2月20日(水)

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